2020年に亡くなった野村克也氏は球界を代表する名選手であっただけでなく、名監督・名指導者として、ヤクルトの高津臣吾監督をはじめとする数多くの人材を育てました。野村氏は指導において誰よりも「言葉」を重視しましたが、メディアを通して世間に伝わった「名言」は時に表面的に解釈され、曲解されることもありました。
晩年の15年間、マネージャーとして家族以外ではもっとも多くの時間を野村氏と過ごしてきた小島一貴氏は、著書『人を遺すは上』であらためて野村氏の名言や家族、自身との会話を振り返り、そこに込められたより深いメッセージを読み取っています。
※『人を遺すは上 専属マネージャーがはじめて明かす 野村克也 言葉の深意』(小島一貴著)から「はじめに」を掲載します。
間近で触れた「思考の深さ」
2020年2月、野村克也監督がお亡くなりになった。私が以前在籍していた代理人事務所は、2006年から監督の個人事務所としてお仕事をさせていただくことになり、私が監督の担当者になった。ちょうど監督が楽天の監督に就任された年である。
そのため私は、野村克也氏が楽天監督を退任したあとも今に至るまで、氏のことを「監督」と呼んでいる。15年近くの間、個人マネージャーとして監督の取材・出演に何度も同行させていただくことになった。
正直に言うと、最初は必ずしも楽しいとは思えなかった。当時、監督のスケジュールの管理は沙知代(さちよ)夫人が行なっており、案件ごとに夫人とのやりとりが生じ、毎回のように叱られ、怒鳴られていたからだ。ただ、マネージャーとして近くで聞く監督のお話は、本当に興味深かった。
ちょうど私が子どもの頃や学生の頃に見ていた野球界の話だからかもしれないが、一つひとつの話が面白いし、何よりも監督の思考の深さにどんどん引き込まれていった。同時に、監督の人柄にも惹(ひ)かれていった。時間が経つにつれ夫人から叱られることも減っていったが、仮に怒鳴られ続けていたとしても、監督のマネージャーを自分から辞めようとは思わなかっただろう。
私は2016年に独立したが、その後も数は減ったとはいえ、監督のお仕事はさせていただいていた。2017年12月に夫人が亡くなり、2020年2月に監督が亡くなった。最後までもっとおそばで、より多くのお仕事をさせていただきたかった、と後悔する気持ちもある。
誤解された名言もある
本書のテーマは、野村監督が遺した数々の言葉の深意を伝えることである。深意と言っても、私がマネージャーとして近くで見聞きした中での深意である。したがってあくまで個人的な解釈であることを、どうかご容赦願いたい。
監督は数多くの著書を残し無数の名言が世に残っているが、実は世間で言われている解釈はやや誤解があるのではないか、と思うこともしばしばあった。
そしてそれと同じくらい多かったのは、「その言葉は単発ではなく、別な言葉とセットになってこそ意味がある」と感じることだ。本文中にもあるように、監督は投手の球種を単品ではなくペアで活用することを説いていた。監督の言葉もまた、単品ではなくペアでこそ深意が伝わると、私は感じていた。
現在の野球界に数多くの人材を遺した監督。その監督の言葉の深意を、たかが個人マネージャーにすぎなかった者が伝えようとするなど、勘違いも甚だしいのかもしれない。
しかしその一方で、長年近くで話を聞き続けた者にしかわからない深意も、きっとあるのだろう。あるいはいくつか成立し得る解釈の一つだととらえていただいてもありがたい。本書で扱った監督の言葉のうち、一つでも読者の方が「ああ、なるほど」と思っていただけたら、私にとってはこの上ない喜びである。
原稿を書き終えて思うのはやはり、監督なら何とおっしゃるだろうか、ということだ。どう転んでも、ほめてくださることはないだろう。
2023年1月 小島一貴
著者プロフィール
1973(昭和48)年生まれ。東京大学法学部卒。高校まで野球を続けるも肩を故障する。大学卒業後に単身渡米。サンフランシスコ州立大で自身の肩の治療も兼ねて運動学を専攻。
2001年、トレーナー見習いとして独立リーグ球団エルマイラ・パイオニアーズに入団するが、日本人選手獲得により通訳を兼務。同年オフ、プエルトリコのウィンターリーグにて故・伊良部秀輝氏の通訳を務める。2002年、MLBテキサス・レンジャースにて同選手の通訳。
2003年より代理人事務所にて勤務。2006年より故・野村克也監督のマネジメントを担当。以後、2016年の独立を経て氏の逝去直前までマネジメントを担当した。並行してアジアでプレーする外国人選手の代理人や、北米でプレーする日本人選手の代理人を歴任。2020年から光文社『FLASH』にて野球記事を不定期連載しており、コアな野球ファンからの人気が高い。