“わかっていても打てない”唯一無二の豪球「火の玉ストレート」を武器に、野球界に鮮烈な記録と記憶を残した稀代のクローザー、藤川球児選手。彼が野球人生のすべてを語った現役引退後はじめての著書、『火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟』が発売されました。ここでは本書から「プロローグ」を公開します。


火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟

これまで、何球くらい受けてもらっただろうか──。

マウンドに立ってキャッチャーの矢野耀大(あきひろ)さんに向き合ったとき、ふとそんなことを思った。22年間の現役生活で、最も多くのボールを受けてくれたのが矢野さんだったことは、間違いなかった。

2020年11月10日、甲子園。巨人との試合のあと、僕の引退セレモニーが行なわれた。矢野さんとのバッテリーが再現され、僕は現役最後の1球を矢野さんが構えるミットをめがけて投げようとしていた。

矢野さんの生(き)まじめな構えは、現役のころとあまり変わらなかった。

 

僕のストレートは、打者の手元で浮き上がるといわれた。

「火の玉や」

あのとき、清原和博さんが三振に倒れたあと、僕のボールをそう表現してくれた。以来、僕のストレートは「火の玉ストレート」と呼ばれるようになった。

キャッチャーとして僕のボールを受け続けてくれた矢野さんは、ややおおげさな表現と断ったうえで、「魔球」と評してくれた。

いずれにせよ、僕のストレートを受けることができるのは矢野さんしかいない。うぬぼれを込めて、そう考えたこともある。実際、矢野さんは僕のストレートを後逸しなかった。

 

当初、現役の監督である矢野さんから花束をいただくだけだった引退セレモニーの変更をお願いしたのは、僕である。

無理を承知で、花束をいただく前に、僕のラストピッチングを設定してもらった。現役最後のボールは矢野さんに捕ってもらおうと決めていたのである。

そうしなければ、僕は死ぬまで後悔し続けるかもしれない。そう思うだけの理由があった。

本書口絵より

ちょうど10年前の9月30日、甲子園。本拠地での最終戦の相手は横浜だった。試合後には、矢野さんの引退セレモニーが予定されていた。

そのシーズンの阪神は投打ともに好調で、最終盤まで巨人、中日と優勝を争っていた。数日前には、9試合を残していた2位の阪神に優勝マジック8が点灯するという混戦だった。

 

その日、3回裏に1点を先取した阪神は、4回表に追いつかれたものの、4回裏と5回裏に1点ずつ追加して、横浜を引き離した。

2点リードのまま迎えた9回表、僕はマウンドに向かった。登場曲はいつものLINDBERGではなく、FUNKY MONKEY BABYSの曲だった。そのシーズンの矢野さんが打席に向かう際のテーマ曲だった。

引退セレモニーを試合後に控えていた矢野さんは、もはや満身創痍(まんしんそうい)といった状態だった。このシーズンも故障が長引き、結局、数試合に出場しただけだった。

だが、甲子園のファンのみなさんに、矢野さんに現役最後の姿を見届けてもらわなければならない。9回表に登板した僕が2つアウトを取ったら、城島健司さんに代わって矢野さんがマスクをかぶる予定になっていた。

 

それまで修羅場は何度もくぐってきたはずなのに、その日、僕のボールは荒れていた。先頭打者を四球で歩かせ、ふたり目の打者にも四球を与えて、ノーアウト一、二塁になった。

そして、4番の村田修一さんが打席に立ち、僕が投げた高めのストレートはスタンドに運ばれた。

その瞬間、矢野さんの出場機会は失われた。そして、9回裏の攻撃は無得点に終わり、逆転負けを喫した阪神の自力優勝も消えた。

「球児が打たれたのなら、しかたない」

引退セレモニーの際、出場機会を失わせてしまったことを謝ると、矢野さんはそう言って僕をなぐさめてくれた。だが、それ以来、僕がこの日の出来事を忘れることはなかった。

 

僕の引退セレモニーでのラストピッチングは、絶対に矢野さんがキャッチャーでなければならなかった。それは、僕のわがままである。

だが、球団も、矢野さんも、僕の最後のわがままを快く受け入れてくれた。おかげで、僕は何も思い残すことなくユニフォームを脱ぐことができた。

 

僕の現役最後の1球は高く浮いて、矢野さんは立ち上がって受けた。その日のために用意されていたのは、矢野さんが現役最後に使っていたミットだった。

本書口絵より

著者プロフィール

藤川球児 (ふじかわ きゅうじ)

1980年7月21日生まれ。高知県高知市出身の元プロ野球選手。高知商業高校から98年ドラフト1位で阪神タイガースに入団。2005年、「JFK」の一角として80試合に登板してリーグ優勝に貢献。06年シーズン途中からクローザーに定着。以降、絶対的守護神として活躍。07年には日本記録となる46セーブをマーク。13年にメジャーリーグ、シカゴ・カブスへ移籍もケガのため、オフにはトミー・ジョン手術を受けた。15年はテキサス・レンジャーズで故障からの復帰を果たすも、5月にメジャー40人枠を外れ自由契約となり、四国IL高知へ。16年に阪神に復帰。17年は52試合に登板し、ベテラン中継ぎとして投手陣を取りまとめる。20年シーズン終了時点におけるセ・リーグシーズン最多セーブ記録保持者(46セーブ)であり、現役最多セーブ記録保持者(243セーブ)として、同年シーズンかぎりで現役を引退。