しかし、GHQやアメリカのプロパガンダによる情報操作の影響かもしれませんが、戦後の日本ではこの戦間期の両体制がもっていた帝国主義的な本質が議論されることはほとんどありません。国際連盟も同じで、むしろ日本ではいまだに国際連盟を戦後の国連のような、普遍的で崇高な存在であったかのようにとらえる傾向がある。しかし、それは違うんです。

たとえば、前述のように国際連盟は、第1次世界大戦に敗れたオスマントルコの広大な領土をバラバラに解体しました。そして、「委任統治」という制度によって戦勝国に分配してしまった。これは明らかに植民地の再分配ですね。

しかも、当時、ソ連は国際連盟に加盟していません。アメリカも、ウィルソン大統領が提案した国際機関であるにもかかわらず、上院が反対して、加盟しなかった。当時の世界地図を広げてみると、世界の面積のおよそ4分の3は欧米諸国の植民地ですから、加えてアメリカもロシアも加盟していないとなると、要するに人類のほとんどは国際連盟と関係がなかったわけです。

もともと満州は中国の一部ではない

西岡 そうして世界中がさまざまな思惑によって分割され、分配されていたとき、日本のすぐ隣の中国だけが「門戸開放」を求められていました。つまり、特定の国だけに権益を認めるのではなく、どんな国にも平等に権益を認めるべきだ。と。いわば半植民地だったわけですが、ここで満州がクローズアップされてくることになります。

満州はいま、中国の東北地方といわれますが、万里の長城の外側ですから、中国ではありません。もともとは、漢民族ではなく満州族が住んでいた地域です。この満州族が万里の長城に侵入して中国に清という国家をつくったとき、自分たちの故郷は空けておいた。

中西 満州だけは、中国とはまったく別の国にしておいたんですね。ただし、その支配者は、満州とは別個に中国本土を統治していた清と同じで、愛新覚羅一族が2つの国を支配した。ところが、1912(明治45/大正元)年の辛亥革命で清が倒れて中国本土にいた漢民族が中華民国をつくったとき、孫文たちが、「満州もこの中華民国の一部だ」といいだした。ここから漢民族国家である中華民国による満州侵略が始まったんです。

※辛亥革命:1911年から翌年にかけて中国で発生した武力による政権交代のこと。清国が倒れ、アジア初の共和制国家である中華民国が成立した。中華民国を指導した初代臨時大総統は孫文。


実は、この歴史が非常に重要なのに、戦後の日本ではすべて東京裁判や中国側の主張を100パーセント受け入れてしまっています。満州族は、中国皇帝になって中国も支配したばかりに、それが滅ぼされたとき、故郷の土地まで中国人に奪われてしまったわけです。それ以降、満州には中国本土から不法移民がどんどん流入してきます。

もっとも、すでに清朝末期から移民が押し寄せていて、日露戦争で日本が満州に軍を進めたときから、日本人や中国人が移民していたんです。たしかに、そのなかでは漢民族が群を抜く多さでした。

西岡 朝鮮人もいっぱい行きました。

中西 ですから、満州はアジアにおける諸民族の入会地だったんです。そういう状況のなかで、「民族自決」という世界史の1つの流れからすれば、当然、満州人による民族自決という方向性もあったわけです。また、そもそも不法移民が大挙してやってきて、その結果、人口が数のうえで多数派になったからといって、その土地が合法的に自分たちのものになったとはいえません。

※入会地:共有地のこと。山林や原野、海などを村落が共同で管理し、利益を得た。


しかし、中華民国はそう主張し始めた。そして、結果的には中国が武力で満州を併合してしまった。ここまで見てくると、満州事変を日本による一方的な満州の侵略と定義してしまうのは、まったくおかしなことだと思います。もちろん、第2次世界大戦後にほぼすべての植民地が独立するまで、民族自決の原則が世界の主流になったとはいえませんが、当時からそこへ向けた流れはあったと見るべきですね。

いずれにしても、今日、チベットや新疆ウイグル自治区、内モンゴルでは、中国政府は民族自決を許さず、満州同様、漢民族の人口を不当に流入させて、武力弾圧に加えて人口的にも侵略を完成させようとしています。戦前の満州問題の本質は、日本がこうした漢民族による満州侵略に対し、「ノー」をいった、ということなんです。

ただ、ヨーロッパの歴史を専門にしている立場からいうと、1930年代の世界における民族自決はあくまでヨーロッパの話です。いまでもヨーロッパの研究者たちは「nationalself-determination(民族自決)が中東やアジアに?」と、怪訝な表情で受け止めますよ。