「武装イスラム集団」や「アルカイダ」、「ISIL(IS、ISISなど)」などに代表される近年のイスラム過激派の活動により、「イスラム教=過激な宗教」というイメージの固定化が懸念されています。2015年2月、駐日トルコ大使館が在日イスラム教徒への風評被害を懸念し、「イスラム国」という名称を用いないよう在京メディアに求める声明を発したのも、そのひとつです。
http://tokyo.be.mfa.gov.tr/ShowAnnouncement.aspx?ID=226985

そもそも「ISIL」はどのような過程で発生したのでしょうか? 『歴史図解 中東とイスラーム世界が一気にわかる本』(以下同書)をもとに、その概略を見ていきましょう。

※同書では「イスラーム国(IS)」と表記していますが、本記事では引用部分を除き「ISIL」と記載しています。

 きっかけは「アラブの春」(参照:同書P.256-257)

2010年末、チュニジアにて一人の青年が露店を開いていたところ、売っていた青果を没収されました。当時のチュニジアでは若年層の失業が広がっていたこともあり、青年は抗議の意味をこめ焼身自殺しました。イスラム教では自殺・焼身がタブー視されていますが、親族がFacebookに自殺現場の写真をアップしました。

それを衛星放送局・アルジャジーラが報じたことにより、追悼デモならびにチュニジア政府に対する抗議デモが拡大。軍部や政権内部の寝返りもあり、2011年1月にチュニジア独裁政権は倒壊しました。

ここら先は日本でも知られている通り、長期独裁政権が続いていたエジプト、リビア、イエメンなどに住む若者の間に、SNSを通じて飛び火。エジプトでもムバーラク政権が崩壊(2011年2月)するなど、中東各地でデモによる変動が発生し、「アラブの春」と呼ばれるようになりました。

しかし、アラブ世界には民主的に政権を移譲するシステムがありませんでした。そして、政権崩壊後に部族・宗派を中心とする勢力の対立が顕在化。それに伴い過激派が台頭したり、統治の及ばなくなった空白地域が発生するなど、民主化運動がそのまま政治的混乱を生み出すきっかけとなりました。

シリア内戦(参照:同書P.258-259)

「アラブの春」の影響を受けたアラブ諸国のなかでも、とりわけ混迷を深めることになったのがシリアです。2011年3月、「アラブの春」の反体制運動が波及してきたシリアのアサド政権は、反体制派に対する弾圧を開始。その弾圧が、アルカイダ系の反政府戦闘集団の大規模介入を招き、三つ巴の内戦として泥沼化しました。

イランの支援下にあるレバノンの武装組織「ヒズボラ」やシリアに海軍基地を持つロシアは、政権側を支持。一方でサウジアラビアやヨルダン、欧米各国は反体制派を支援。政権側と反体制側で宗派が違うこともあり、内戦はさながら「大国の代理戦争」「宗派戦争」のようでもありました。

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『歴史図解 中東とイスラーム世界が一気にわかる本』P.259より