5374a
画像をクリックするとAmazonの書誌ページが開きます

あるいは、1922年のワシントン会議で米中との間で日本が演じた外交上の大失態を視野に入れないと、きちんと説明できないんです。私は、1945年の敗戦は大正の15年間における日本外交の連続的な失敗に最大の原因があったと思います。つまり、大正時代のツケが昭和時代に回ってきたんだと思うわけです。

※ワシントン会議:1921年から翌年にアメリカが提唱して開催された国際会議で、太平洋・東アジア地域に権益をもつ日米英など9か国が参加。日英同盟の破棄、主力艦保有量を制限するワシントン海軍軍縮条約の締結、さらには主としてアメリカと中国による日本を包囲・抑止しようとする狙いから、中国の門戸開放を求める9か国条約の締結などが議決された。


そういったことを考えると、近代の日本を明治・大正・昭和という3つの時代で考えるのは、必ずしも適切ではないように感じます。たしかに、明治は1つの時代ととらえてもいいでしょう。1868(明治元)年から1912(明治45/大正元)年までですね。

しかし、歴史の意味を考えると、それに続く時代は「大きな大正時代」として45年までがひと区切りで、この33年間は連続しており、それが終わった45年8月16日から本当の昭和が始まるというふうにとらえたほうがわかりやすい。昭和天皇のたどられた道を考えても、1921(大正10)年以降は摂政宮として国家の屋台骨を担われたわけですから。

※摂政宮:病状悪化によって政務に支障をきたすことが懸念された大正天皇に代わり、1921(大正10)年に摂政に就任した皇太子(のちの昭和天皇)をこのように称した。摂政とは、幼少や病弱な君主に代わって政務をとる役職のこと。


西岡
 私も、基本的には中西先生のお考えに共感するんですが、昭和と大正の連続性もさることながら、もっと遡って昭和と明治のつながりを強く感じます。そのことを最もよく表わしているのが、1946(昭和21)年1月1日に昭和天皇が発せられた「新日本建設に関する詔書」ですね。

その冒頭で昭和天皇は「五箇条の御誓文」を挙げて、日本の民主主義は敗戦後にGHQから与えられたものではなくて、明治維新から始まっているんだということをおっしゃっています。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という1条が、まさにそれですね。ですから、昭和は明治維新にまでつながっていて、さらにいえば天皇を中心とする国体は日本という国が始まって以来、変わっていない。

長い歴史のなかで、昔は中国からの外圧があって、幕末になると欧米から圧迫を受けたけれど、基本的に日本の国柄は変わっていないんだ、ということが書いてある。私は東アジアが専門ですからとくに感じるんですが、日本という国号が変わっていないというのは、世界史的に見て奇蹟に近いことなんですね。平安時代も江戸時代も、一貫して日本なんです。

しかし、中国や朝鮮では皇帝や王様が革命によって倒されると、国号が変わります。東アジアでは、特異といってもいいシステムを維持しながら日本という国は続いてきたわけです。

歴史観をゆがませる大正時代へのノスタルジー

西岡 そして、「新日本建設に関する詔書」では「朕トなんじ国民トノ間ノちゅうたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニあらズ。天皇ヲ以テあきつかみトシかつ日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ」という一節があって、これを天皇による「人間宣言」であると解釈するのが通説です。

つまり、GHQの圧力によって昭和天皇自ら神格化されたお立場を否定せざるを得なかったんだといわれてきましたが、冒頭で「五箇条の御誓文」が掲げられていることを考えると、それは違う。明治以来、そんなものはもともとなかったんだとおっしゃっていると解釈すべきです。

ポツダム宣言で「日本は世界征服を狙っている」と指弾されたような事実もなければ、のちの東京裁判で指摘された「共同謀議」もなかった。連合国が勝手につくりあげた言いがかりなんだ、と。

※共同謀議:ニュルンベルク裁判でナチス・ドイツに対して用いられた論理が日本にも適用され、A級戦犯28名が1928年から45年まで一貫して世界支配のため共同して謀議したとされた。


どちらかというと、日本の歴史は受け身ですね。明治維新は、欧米列強の外圧を跳ね返そうとするところから国づくりが始まったわけですし、大東亜戦争も「米国及ビ英国ニ対スル宣戦ノ詔書(開戦の詔書)」にあるように、自存自衛のための戦争でした。