人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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土岐氏のその後

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2020/04/14 09:57

(画像はNHK公式サイトよりキャプチャ)

12日の大河ドラマ「麒麟がくる」では、ついに斎藤道三によって守護土岐頼芸が美濃国を追放され、名門土岐氏は事実上滅亡した。天文21年(1552)のことである。以後、土岐氏は歴史の表舞台から消えるのだが、完全に滅んだわけではない。

頼芸はこのあと、近江の六角氏や常陸国にいた実弟の治頼のもとを転々とした。そして、織田信長が武田氏を滅ぼした際に発見され、かつての家臣であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻っている。その半年後には死去するのだが、斎藤道三はもちろん、織田信長、明智光秀よりもわずかながら長生きした。

頼芸の二男頼次と四男頼元は、関ヶ原合戦後ともに徳川家康に仕えて旗本となり、江戸時代は高家に列した。今川家など、戦国大名の末裔は高家となった家が多い。また、頼芸の弟治頼は常陸国の原美作守景成の養子となって江戸崎城に住んでいたが、のち土岐氏に復した。この末裔ものちに徳川家康に仕え、江戸時代は紀伊藩士となっていた。

そして、享保元年(1716)吉宗の八代将軍就任の際に、朝治とその三男朝直は吉宗に従って旗本に転じ、朝直の曾孫の朝旨は側御用取次となって4000石に加増され、その子朝昌は講武所奉行をつとめている。

こうしてみると、「滅んだ」とされる戦国大名も江戸時代にはそれなりの地位を得ていることが多い。なお、上野沼田藩主をつとめた土岐家も一族だが、頼芸の家とはかなり遠い。

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