人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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田沼家のルーツ

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2025/07/01 10:31

佐野氏歴代の墓所がある本光寺の所在地は佐野市田沼である。現在、田沼は佐野市の一部だが、平成大合併の前は田沼町という独立した自治体だった。そして、ここはその地名からもわかるように、田沼意次のルーツの地でもある。

田沼氏は下野佐野氏の庶流である。鎌倉時代初期に佐野盛綱の七男重綱が下野国安蘇郡田沼(栃木県佐野市田沼町田沼)に住んで田沼氏を称したのが祖である。
戦国時代には武田氏に従う小土豪で、武田氏の滅亡後は流浪していたという。やがて主筋にあたる佐野氏に従い、江戸時代には紀伊藩に仕えた。身分は足軽だったという。

その後、紀伊藩主だった吉宗が8代将軍に就任すると、田沼意行が吉宗に従って旗本に転じた。そして、その子が意次である。つまり田沼家は佐野氏の庶流の末裔である一方、父以前は紀伊藩足軽という低い身分で、系図すらはっきりとしない。

そのため、佐野善左衛門政言は自家の系図を持参して引き立てを願ったのだ。しかし、実際には善左衛門の家は佐野氏の中では庶流にすぎず、田沼家の主家だったとはいいがたい。

さて、佐野市田沼には田沼氏の築いた田沼城の跡があるというので訪れてみた。東武佐野線の田沼駅から南西に1キロちょっと歩いたところにある、こども園の付近が田沼城の跡だという。現在では遺構は全く残っていないが、一部が空き地となっており、その周囲には土塁のような痕跡もみられる。

土塁の跡?

ただし、戦国時代の田沼城主が田沼氏だったかどうかは不明で、佐野氏の唐沢山城の支城だったという。

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