人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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源範頼の末裔

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2022/06/21 10:17

(画像はNHK公式サイトよりキャプチャ)

19日の「鎌倉殿の13人」では、修禅寺に流罪となった源範頼が善児に暗殺された。実は、範頼の没年に関する資料はなく、梶原景時に襲われて自害したとも、所領の吉見に戻ったともいわれる。

そもそも範頼は武蔵国横見郡吉見荘(現在の埼玉県比企郡吉見町)で比企氏の庇護のもとに成長したといわれ、鎌倉幕府成立後も吉見に住んでいたとみられる。吉見町には範頼の館跡といわれる場所があり、ここは「御所」と呼ばれたという。範頼の子範円(範国)は吉見に住んで吉見氏を称し、子孫は幕府の御家人として続いた。

その後一族は能登国(石川県)に移り、鎌倉時代後期には口能登を代表する武家となった。建武2年(1335)足利尊氏が建武政権から離反するといち早くこれに従って能登守護となり、南北朝時代も代々北朝に属して能登守護をつとめたものの、室町時代以降は消息がわからない。

この能登吉見氏の庶流に石見吉見氏があった。弘安5年(1282)頼行が石見国吉賀郷の地頭職を得て能登から移り住み、津和野に土着して石見吉見氏となったという。以後代々津和野(三本松)城に拠り、やがて西石見を代表する国衆に成長した。

天文20年(1551)に陶晴賢が大内義隆を弑すと、正頼は津和野城に拠って陶晴賢と戦い、毛利元就が陶晴賢を討つと毛利氏に仕えてその重臣となった。関ヶ原合戦後、吉川広家の二男政春が吉見家を継ぎ、のち毛利就頼と名乗って藩主一門に列して家老になっている。

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