人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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朝倉景鏡と朝倉氏の末裔

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2020/10/05 13:00

(画像はNHK公式サイトよりキャプチャ)

4日の「麒麟がくる」では、手塚とおる扮する朝倉景鏡が登場して話題になっていた。一般的な知名度は低い朝倉景鏡だが、ドラマ上ではこのあと重要な役割を果たしそうだ。ネタバレも含めてこのあとのことを紹介しよう。

朝倉景鏡は義景の父の弟の子、つまり従弟にあたる。越前国大野郡を支配した大野朝倉氏の当主で、一族の中でも筆頭の地位にあったとみられる。これから5年後の1573年、一乗谷の合戦で織田信長に敗れた朝倉義景は景鏡の進言で大野郡に逃れたが、ここで景鏡に包囲されて自害。景鏡は義景の首級とその母の身柄を信長に渡して降伏、以後信長の家臣となった。しかし、翌年には一揆が起こって討死、ここに越前朝倉氏は滅亡した。

ところが、朝倉氏の子孫は思わぬところに続いている。

景鏡には在重という弟がいたとされる(異説がある)。在重は早くから駿河国に移り住んで今川氏に仕えており、今川氏滅亡後子孫は徳川家康の家臣となった。そして、在重の孫にあたる宣正は駿河大納言といわれた徳川忠長(3代将軍家光の弟)の家老で、遠江掛川で2万6000石を領していた。1万石以上のため掛川藩主といわれることもあるが、正式には忠長の家臣であり大名ではない。

忠長が自害した際に宣正は連座して所領が没収されたものの、一族のうち数家は旗本として以後も存続している。

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