哀歌、ミサ曲、レクイエムから交響曲、オペラまで、ギリシャ・ローマ時代にはじまり現代に至る西洋音楽史には、死の観念が通底している──厳選された101枚のディスクとともに「死の芸術」のエッセンスをたどる『〈死〉からはじまるクラシック音楽入門』。クラシックのガイドとしては風変わりな、しかし意外にまっとうな本書の「まえがき」を公開します。

まえがき──奇妙なオーダー「死の音楽を書いてほしい」

灰色の服に身をつつんだ男がやって来て、突然こんな話を切りだした。

「死の音楽について書いてくれるよう、あなたに頼みたい」

1791年、プラハからウィーンに戻ったヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜91)のもとに匿名の依頼者からの使者だという男が現れ、報酬の一部の前払いと引き換えに《レクイエム》の作曲を依頼していった。モーツァルトはその男が「死の世界からの使者」のように思え、結局《レクイエム》ニ短調K.(ケッヘル番号)626は未完のまま彼の絶筆となった―という有名なエピソードのことを言っているのではない。

1791年のウィーンではなく2022年暮れの西武池袋線沿線の街で、「死の世界からの使者」ではなく日本実業出版社の敏腕編集者であるM氏が、わたしにそう言ったのだ。

自分自身をモーツァルトになぞらえるなどという身の程をわきまえぬ暴挙に出てまでもわたしが言いたかったのは、M氏の申し出がそれほどまでに怪しげで危ういもののように感じられたからだ。わたしはクラシックのコンサートにはよく出かけるし、この世で一番好きな曲はシベリウスの《交響曲第6番》だと日頃公言している。音楽関係の書籍も数冊、企画・編集した。

とはいえ基本的にはただの好事家(こうずか)だ。よってこの話はお断りするしかないと思ったが、とはいえ無碍(むげ)に断っては仲介の労をとってくれた友人のU氏にも悪いし、話を聞くだけは聞いておこう、程度の気持ちでM氏の提案に耳を傾けた。

……これが、予想外に面白い。わたし以上にクラシック音楽に詳しいM、U両氏の口から、作曲家たちの死にまつわるエピソードが次々と語られる。おかげで、クラシック音楽が〈死〉と深く関わりを持ってきたことをあらためて認識させられた。

確かに音楽は、ともすれば絵画や文学以上に、〈死者〉に捧げられてきた芸術なのかもしれない。気づけば、クラフトビールがスコッチのハイボールに切り替わる頃には、わたしはその企画を引き受けることになってしまっていた。

人はなぜ死と悲しみの芸術を必要とするのか

一夜明け、わが肝臓の毎度毎度の献身的な働きによってアルコールが分解され体外に排出されるのと同時に、その場で大役を安請け合いしてしまった昨夜の自分のうかつさを後悔する冷や汗も分泌されてきた。唯一救いだったのは、今回の企画はわれら三人のプロジェクトということにしてそれぞれがアイデアや情報を持ち寄り、わたしはそれを文章化する、というスタイルで行こうと決めたことだ。もちろん文章の全責任はわたしにあるが、実際の仕事は三人の合作と言っていい。

とりあえず基礎作業として、タイトルに〈死〉という文字が入っている曲(例:サン=サーンスの《死の舞踏》)や、作曲時のエピソードが〈死〉と関係がある曲(例:《ベルクのヴァイオリン協奏曲》)などをリストアップしてみたら、あっという間に三桁に達した。

ここに、あからさまには〈死〉を謳っていないものの〈死〉の気配を漂わせる曲(例:マーラーの《交響曲第九番》)や、〈死〉につきものの〈悲しみ〉〈悲愴〉〈悲劇的〉といった情動や形容をともなっている曲を含めるとなると、どのくらいの数になるか見当もつかない。それほどまでに作曲家たちは〈死〉を音化し、〈悲しみ〉を奏でてきたのだ。

ことほど左様に音楽は〈死〉の芸術としての性格を強く有しているが、それを演奏し聴くことで、われわれは〈生〉の充実を感じる。〈死〉を聴くことでそのつど新たに〈生〉を得る。〈悲しみ〉を敵とみなしそれを快楽によって忘れ去るのではなく、〈悲しみ〉を友として扱い、それと上手に付き合えるようになるのだ。

〈死〉や〈悲しみ〉といったできれば排除したいはずのネガティブな出来事・感情──心理学でいう「不快情動」──を、われわれ人間は音楽によって傍(かたわら)に置こうとする。考えてみれば不思議な話ではないか。

その不思議さに、本書を通じて少しでも迫りたいと思う。

執筆に際しては、クラシック音楽は好きだが専門的な音楽教育は受けたことがないような読者を本書の標準的な読者像として想定し、「平行調」や「増七度」といった専門的な楽理用語はできるだけ使わないことを心がけた。

そしてメインで取り上げた曲については、ページの脇に推薦盤のCDを挙げておいた。ただし、手持ちのCDなど筆者が聴いた限られた範囲からのチョイスなので、偏りが出るのは否めないし、廃盤になってしまったものも少なくない。その点ご海容願いたい。

また一般書という性格と紙幅の都合上、参考文献の記載は最小限とし、必要に応じて本文ないしは脚注に付した。

執筆のスタイルについても、音楽史上の時系列に沿って書くことはあえてせずに、〈葬送行進曲〉〈レクイエム〉といった個々のトピックを、時代あるいは地域を飛び越え時には溯(さかのぼ)りつつ追いかける、文芸批評でいうところの「主題論的(テマティカル)」なアプローチを採った。バロック音楽と現代音楽に同じ〈死〉の匂いを嗅ぎ取って同列に論じる、などということがあってもいい。

では、いざ開演。

著者プロフィール

樫辺 勒(かしべ ろく)

本名:片岡 力(かたおか ちから)。フリーの書籍編集者・文筆家。1961年宮城県塩竈市生まれ。人文書版元の編集者を経て独立。特撮から哲学までサブカル・人文書を幅広く手がける。またTV番組『仮面ライダー響鬼』では設定を担当。2023年、小説「ホダニエレーガ」で第6回仙台短編文学賞・河北新報社賞を受賞。著書に『「仮面ライダー響鬼」の事情 ドキュメント ヒーローはどう〈設定〉されたのか』『哲メン図鑑 顔からわかる哲学史』(ともに五月書房)、『小説 写真甲子園 0.5秒の夏』(新評論)、『幕末ラッパー』(私家版)などがある。