古典落語の知と立川流真打ちの芸を武器にマルクス『資本論』の読解に挑む! 誤読超訳なんのその、蛮勇奮った落語家は学生時代のリベンジを果たせたのか? 江戸の長屋の世界から『資本論』を大胆解釈した『落語で資本論 世知辛い資本主義社会のいなし方』から、著者・立川談慶師匠による枕(まくら)をお届けします。
(本稿は同書の「序章のようなまえがき」を抜粋したものです)

シャレが通じず安請け合い?

「『資本論』を落語で読み解けませんかねえ?」

 日本実業出版社の編集者の松本幹太さんと飲みながら、かような会話で盛り上がった翌日、「マルクス研究者の的場昭弘先生を紹介します」という電話をもらうことになりました。

 いやあ、参りました。「カタギの編集者はシャレがわからんなあ」と嘆くも、ま、ものは試しとばかり、的場先生に会いに神奈川大学に行くと、「まあビールでも」という流れになり、近場の居酒屋で飲むほどに酔うほどに、的場先生とは同じ慶應義塾大学経済学部の卒業生で、学生時代のゼミの高山隆三先生(農業経済論)とも懇意ということがわかり、さらには的場先生の気さくなお人柄にも触れることになり、「じゃあ、やってみましょうか」と「安請け合い」をすることになりました。

「『資本論』と落語では、時代も背景も成立過程もまったく違うじゃないか。経済学と江戸文化とが交わり合うわけないだろ」と自分自身に突っ込みますが、「いや、まったく性質の違うもの同士だからこそ、現代、そして未来につながるのではないか」と妙な自信というか、根拠のない予感と期待が芽生えてもいました。

 自分自身でこの先どうなるかわからない展開にウキウキしてきたのです!

 そして、一つの強引な仮説を打ち立ててみることにしました。

「立川談志は落語界のマルクスだったのではないか」と。

談志とマルクスの共通点

 マルクスの言葉に「すべては疑いうる」というのがあります。

 弁護士の父親を持つ家に生まれたマルクスは、持ち前の批判精神を発揮し、まずはジャーナリストとしての才能を発揮しますが、行く先々で問題を起こし、その後、転々とします。

 まさに談志も、「新聞で正しいのは日付だけだ」と言い放って、寄席で爆笑をさらい、落語界の異端児・天才児の名をほしいままにします。

 マルクスの主幹していた「ライン新聞」で、談志がかような発言を繰り出したらどうなっていたかと想像するだけで笑いがこぼれてきそうな感じがしますよねえ。

 談志も、人一倍気難しい人でした。

 一度「お先に失礼します」と言って「お先に失礼させていただきますだろ、バカ野郎」と、怒られたことがありました(機嫌も悪かったのでしょう)。

 が、価値観を共有すれば、本当にわかりやすい人でもありました。自分が前座突破に9年半もかかったということは、「価値観がなかなか共有できなかったから」とも言えるわけで、ますますその面倒くささがマルクスとかぶるような感じがしてきました。

 マルクスは、世の中のあらゆる前提を疑い、批判の筆鋒を向け、大英図書館に通って書物を漁りまくり、後に『資本論』を著すに至ります。

 談志も10代で時の演芸評論家から絶賛され、売れまくり、マスコミ界の寵児となり、国政にまで進出し、「伝統を現代に」を標榜し、ついには落語協会を脱退し、自ら家元を名乗る「落語立川流」を設立しました。そんな談志の理念の一つが、「落語とは人間の業の肯定である」という歴史的な落語の定義であり、これをはじめとするいくつもの落語の理論化を打ち出しました。

人間の愚かさを掘り下げる落語と『資本論』

 マルクスと談志、落語と『資本論』。

 まったく異質なものですが、あえて無理やり共通項を見出そうとすると、「人間のシステムエラー大全」ではないかと思います。

 大学3年で高山先生の農業経済論のゼミに入り、『資本論』を初めて手に取りはしたものの完全に挫折したのですが、辛うじてわかったのは、マルクスは『資本論』の中で「資本主義の不完全さ」を訴えていたのではないかということでした。

 浅学非才を承知であえて言うならば、「資本主義とは人間の労働が利潤の本質になるシステムで、そこから搾取することで資本家は資本を増幅蓄積する。失業も恐慌も資本主義なればこそ。オートメーション化を推進するのは労働者の肉体的な負担の軽減のためではなく、あくまでも利潤が目的である。失業者が増えれば増えるほど、ますます労働力を安く買い叩けるようになるので、資本家にとってはメリットしかない」という感じでしょうか。

「受肉」という言葉に代表される聖書由来のレトリックなど、独特の言い回しを駆使しているので、とにかく読みにくく、「これは労働者階級に理解されると、とんでもないことになる」と判断した時の為政者たちが、あえて難しすぎる日本語訳を付けたのではという見方すらしていました(そんな話を以前、経済思想史家の白井聡先生との対談で披露したところ、一笑に付されました)。

 かたや落語はわかりやすく、笑いとともに伝えられてきた、とても親しみやすいものですから、定義するほどのものではないと思えますが、談志の定義が教えるのは、そんな軽いものではありませんでした。

「人間なんてもともとダメなものだ。眠くなれば眠っちまうし、飲むなと言っても飲んじまうもの。酒が人間をダメにするわけじゃない。人間なんてもともとダメなものだということを、酒が教えてくれるんだ」と言い切りました。まさにこれこそが「業の肯定」なのであります。

「人間の愚かさ」を経済方面で理論化したのが『資本論』ならば、同じものを生活哲学にまで極めたのが「落語」ではないでしょうか。

 人間の本質を分析したのが古典であるならば、『資本論』は1867年にその第一巻が出た古典であり、落語は17世紀の江戸時代から伝わるやはり古典であります。

 ともに古典同士、人間を見つめてきたもの同士であります。

カール亭マルクス イラスト/立川談慶

マルクスは古くなっていなかった

またまた過去を振り返ります。

「『資本論』なんて古くさいよ」と正直思ったのは、1987年の大学4年の就職シーズンでした。

 世はまさにバブルの始まりの時期。株価がどんどん上がり、「都銀に就職できれば絶対安泰」などという神話が飛び交っていました。女性たちのファッションは、ワンレン・ボディコンという企業戦士たちに媚びるようなスタイルが持てはやされていました。

 カネもなく、容姿に優れているわけでもなく、体育会系のような迫力や気遣いもない私は、モテないままでした。同世代の女性たちが、そんな私とは正反対の勢いのある男たちになびいていくのを指をくわえて見つめることしかできないでいました(大学時代に、恋愛関係で楽しい思い出はさほどありませんでした)。

 ただこんな私でも当時の好景気からか、企業の人事部は人を見る目がないのか、一部上場企業のワコールに入社することができました。大した覚悟も、気構えも、将来の生活設計もないまま内定が決まった私は、ゼミで高山先生がたまに口にする「このままの好景気が続くわけはない」という、いま思えば警句のようなつぶやきにも懐疑的でした。

「もうマルクスは古いよね」「ああ、近経(近代経済学)の勝ちだね」などと、都市銀行に決まった友人らと話していたものでした。

 その後──。

 卒業してから3年後のバブル崩壊の年と言われている1991年に、私は立川談志門下に入門しました。前座修業とは耐乏生活を意味します。大学の同期らが上場企業で昇進し、結婚していく中、私はずっと前座のままでした。その間、山一證券、そして都銀の北海道拓殖銀行が潰れました。

 歩みののろい私は、2000年に二つ目に昇進、その年に結婚し、2001年、2003年と二人の男の子に相次いで恵まれ、2005年に14年かかって真打ちに昇進することができました。

 世間の景気に背を向け続けてきた時期と、私が落語家を名乗った期間とが見事に一致します。

 そして、注目すべきは、私がワコールを退職して以降の日本経済は、ずっと底辺のままであります(ここ30年で景気がよくなっていない国は、先進国では日本だけと判明しました)。

 そこに2008年のリーマンショックがさらに追い打ちをかけます。このころから非正規雇用が増え、「年越し派遣村」「派遣切り」「ワーキングプア」などという言葉が使われ始めました。その後さらには、2011年の東日本大震災、安全だと信じられていた原発の爆発、そして2020年からの新型コロナウィルス蔓延によるいっそうの経済停滞……。

 高山先生の墓前にお詫びに行かなければなりません。

 マルクスはきっと、談志の口調を借りてこう言うでしょう。

「ほーら、みやがれ、俺の予想した通りだろ」と。

『資本論』の一節(第1巻23章)には、こんな記述もあります。

……したがって一方の極における富の蓄積は、同時にその対極、すなわち自分自身の生産物を資本として生産している側における窮乏、労働苦、奴隷状態、無知、残忍化と道徳的退廃の蓄積である。(池上彰『池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」』)

 難しいことを言っているようですが、超訳しますと、「生活苦からモラルハザードが起こるぜ」ということではないでしょうか。「持続化給付金詐欺」で捕まった若い世代の犯人を見ていると、彼らに好景気を体験させてあげられなかった上の世代にも、ある意味責任があるのではないかとすら感じます。

 150年以上も前に書かれた『資本論』の描く通りになっているこの国の経済状況を憂いながら、マルクスの言わんとしていたところを探らんと、落語の演目や談志の言葉をまぶしつつ、蛮勇を奮ってわかりやすい談慶流の『資本論』読解をご披露したいと思う所存であります。

 長講、一席お付き合い願います。

 あ、それと、今回、的場昭弘先生からの「注釈」が時折、理論的なツッコミとして入っています。「的場スコープ」と銘打っていますが、そちらを読みながら読み進めてもいいですし、いったん本文を全部読んでから、そちらを読んでもいいかと思います。専門家からの愛情あふれるコメントとしてお楽しみください!

 では、よろしくお願いします!

立川談慶(たてかわ だんけい)

落語家。立川流真打ち。1965年、長野県上田市生まれ。慶應義塾大学経済学部でマルクス経済学を専攻。卒業後、株式会社ワコールで3年間の勤務を経て、1991年に立川談志18番目の弟子として入門。前座名は「立川ワコール」。二つ目昇進を機に2000年、「立川談慶」を命名。2005年、真打ちに昇進。慶應義塾大学卒で初めての真打ちとなる。著書に『教養としての落語』(サンマーク出版)、『なぜ与太郎は頭のいい人よりうまくいくのか』(日本実業出版社)、『いつも同じお題なのに、なぜ落語家の話は面白いのか』(大和書房)、『大事なことはすべて立川談志に教わった』(ベストセラーズ)、『「めんどうくさい人」の接し方、かわし方』(PHP文庫)、小説家デビュー作となった『花は咲けども噺せども 神様がくれた高座』(PHP文芸文庫)など多数の“本書く派”落語家にして、ベンチプレスで100㎏を挙上する怪力。

監修・解説 的場昭弘(まとば あきひろ)

日本を代表するマルクス研究者、哲学者。マルクス学、社会思想史専攻。1952年、宮崎県生まれ。元神奈川大学経済学部教授(2023年定年退職)。同大で副学長、国際センター所長などを歴任。著書に『超訳「資本論」』全3巻(祥伝社新書)、『未来のプルードン』(亜紀書房)、『カール・マルクス入門』(作品社)、『「19世紀」でわかる世界史講義』『最強の思考法「抽象化する力」の講義』(以上、日本実業出版社)、『20歳の自分に教えたい資本論』『資本主義全史』(SB新書)、『一週間de資本論』(NHK出版)、『マルクスだったらこう考える』『ネオ共産主義論』(以上、光文社新書)、『マルクスを再読する』(角川ソフィア文庫)、『いまこそ「社会主義」』(池上彰氏との共著・朝日新書)、『復権するマルクス』(佐藤優氏との共著・角川新書)。訳書にカール・マルクス『新訳 共産党宣言』『新訳 初期マルクス』『新訳 哲学の貧困』(以上、作品社)、ジャック・アタリ『世界精神マルクス』(藤原書店)など多数。