私たちが自分の意思で「選択している」と思い込んでいるものは、実は「遺伝子」によって先天的に決められているかもしれない。人間は遺伝子によるコントロールから逃れられないのだろうか――。『「運命」と「選択」の科学』では、注目の若手脳神経科学者・ハナー・クリッチロウが、そうした疑問の解明に挑んでいる。同書のポイントを紹介する。

文:日本実業出版社WEB編集部

「選択する」=「遺伝子の命令に従っている」?

今日のランチは何にしようと考えながら、あれこれメニューを想像するのは、私たちにとって日々のささやかな楽しみである。予算や時間といった制約はあるものの、誰に気兼ねすることもなく、自分が食べたいメニューを自由に選ぶことができる満足感は、決して小さくない。

そうした日常的な場面ではあまり意識されないが、私たちの人生は無数の「選択」で成り立っている。からあげ定食かサラダランチかを決めるのも選択なら、どういう会社に就職し、誰と結婚するかといった人生を左右する大事な場面でも、さまざまな事情を考え合わせながら、私たちは自分自身の意思によって選択している。

そして、その過程に遺伝子が関係していることも、近ごろではよく知られるようになった。ランチにからあげ定食を選びがちな人は、そもそも遺伝子に高カロリーな食事を求めることがプログラムされている、というのである。そうであるなら、ランチのメニューを自由に選んでいるというのは私たちの思い込みで、実際には遺伝子の命令に従っているだけ、ということになる。

私たちの自由意志とは、いったい何なのか。私たちの行動は、遺伝子によってどの程度までコントロールされているのか。『「運命」と「選択」の科学』では、気鋭の神経科学者として知られるイギリス人女性が、そうした疑問の解明に挑んでいる。

恋愛や食事、子育て……身近な「運命」に最先端科学で迫る

「わたしたちが生まれ持った脳は、性格や信条、特別な人生経験を決定づけるのだろうか? これが、わたしが調査を試みる『運命』の意味だ」(本書P.16)

 自分の専門である神経科学の知見をもとに、脳科学や遺伝子工学、分子生物学、生体心理学など、さまざまな分野で最先端の研究に従事する科学者たちを訪ね、彼らとの対話を通じて、著者は「運命」の意味に迫ろうとする。といっても、科学者だけに通じる専門用語が飛び交うことはなく、子育てや恋愛、食事、病気といった身近で具体的な話題が大部分を占める。

 たとえば、食事について、著者は

「食事という最も普遍的な行動さえ複雑で興味深く、えてして人が思うより選択の自由度は低い」(本書P.78)

と語りながら、マウスを使った次のような研究成果を紹介する。

中立的な条件のもとでマウスにサクランボの甘いにおいを嗅がせると、マウスは鼻をクンクンさせながら、サクランボを探して走り回る。

だが、甘いにおいを嗅がせると同時に電気ショックを与えることを繰り返すと、甘いにおいと電気ショックという不快な経験の結びつきを学習したマウスは、ぎょっとしたように動きを止める。

驚くべきは、この行動反応がマウスの子だけでなく、孫にも見られたことである。つまり、2世代前のマウスが学習した記憶が受け継がれていた、というのだ。これが私たちにも当てはまるのなら、たしかに「選択の自由度は低い」と言わざるを得ない。

一方、性行動と生殖機能との密接な関係から、恋愛に遺伝子が深くかかわっていることは、比較的、よく知られている。女性が男性の体臭を重視するのは、自分とは異なる免疫系をもつパートナーを求めるからだ、といった話は、よくテレビでも耳にする。だが、神経科学者としての知的欲求からなのか、著者は「遺伝子の渇望」とは直接的に結びつかない同性愛についてもアプローチする。

もっとも、性的嗜好にかかわる遺伝子はまだ特定されていないため、そのメカニズムは解明されていないのだが、男女ともに同性の年上のきょうだいの数と同性愛に正の相関が認められるという。ある男性が同性愛者である確率は、兄の数が増えるごとに33パーセント増加するというのである。

運命とは「到着の可能性が大きい目的地」

著者とともに科学者たちを訪ね歩くような気持ちで読み進めるうち、ゲノム(DNAのすべての遺伝情報)解読に成功した最新科学は、これまで神の領域とされてきた「運命」の意味をほぼ解明しつつあることに気づく。そのことは、

「脳のことを学べば学ぶほど、運命はあらかじめ定められているという主張は強力になる」(本書P.299)

という著者の言葉からもうかがえる。

では、本を読んだり、摂生に努めたりして、よりよい人生を送ろうとする努力は、結局のところ、徒労にすぎないのだろうか。私たちには、遺伝子に書き込まれた運命に沿った行動しか許されないのだろうか。

「運命とは『絶対的で悲劇的なもの』という考えにとらわれず、『常に到着の可能性が非常に大きい目的地』だと考えるべきかもしれない」(本書P.19)

そう著者は言う。さらに、

「神経生物学がどのように行動を駆り立てるのかをもっと知ることによって、自分がコントロールできる決断を、より上手に下すことができるようになる」(本書P.34)

と、私たちに示唆する。

2020年にノーベル化学賞を受賞したCRISPR/Cas(クリスパー・キャス)という画期的なゲノム編集技術によって、中国ではHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に耐性をもつよう遺伝子を操作された双子の女児が、すでに誕生したという。

私たちは、かつてないペースで進歩しつづける神経科学をどうやって社会に適用させるべきなのか。「裕福な人たちの贅沢品にならないように注意する」ことが大事だという著者の指摘には、科学者の矜持と良心が込められている。