なるべく「正しい」立場に立ちたい、という欲望は、自分がいついかなるときでも、相手を「批判できる立場」に立ちたいという態度にも通ずる。だから「市場の動きに注目したい」と同じように、どんなときでも役立つフレーズを使って、いかにも「批判的立場」に立っているという印象をつくろうとする。

たとえば「本当に今必要なものでしょうか?」は、第1章でも述べたように、データによるコメントや主張に対して、論理で切り返すやり方だ。

実験や観察でわかったことは、YesかNoか、というきっぱりとした形で言えない。「だいたい、こういう関係がある」とか「たぶんこういう結果になるだろう」というもの言いになる。これは、実験・観察をちょっとでもやったことのある人だったら、すぐわかるはずである。

だが、そのギャップを利用して「本当に今必要か?」とか「可能性はゼロではないはず」などと強引に迫る。

いつも正しいことを言う → いつも批判的立場 → 無意味な批判フレーズ

発言している本人は、何か有益な異論を提出しているつもりかもしれないが、これも前述したトートロジーと同じで、実質的な意味を持たない。「おまえの言っているのは科学の理屈だ。しかし、私は、そういうもの言いは信用できない」と言っているようなものだからだ。相手の土俵に乗りたくないと言っているなら、対話のしようがない。

捨て台詞と、どんでん返し

一方で、TVでも新聞でも、一つの記事や話題は3分なり20行なりと物理的なスペースが決まっている。その中で、何とか区切りをつけなくてはならない。したがって、ラストの言葉は、ラストの位置にあるというだけで、他の言葉とは違った重要性を持つ。

たとえば、いろいろコメントした後で、「本当に今必要なものでしょうか?」とか「可能性はゼロではない」と言えば、それで視聴者・読者に疑いの念を持たせられるし、「二度と繰り返されてはならない」と重々しく威厳を持たせることもできる。言うなれば、捨て台詞を活用することで、印象操作を行なえるのである。

物理的限界 → ラストの言葉の重要性 → 捨て台詞による印象操作

芝居には「どんでん返し」という技法がある。伏線を周到に積み上げて、それまで積み上げてきたストーリーをラストでひっくり返して、意外な結末をつけるやり方だ。

だが、ニュースは、そもそも情報自体が不十分だから、それほど緊密な構成にはできない。雑多な情報をとりあえず披露し、関連が不明確でも適当なまとまりをつける。いろいろな場合に使い回すには、最後の言葉は曖昧なほうがいい。

たとえば、あれこれと解説したあげく、「実行するには、強力なリーダーシップが必要になるでしょう」と締めくくる。もちろん「リーダーシップ」と言っても、自分が旗振り役をするつもりはない。「リーダーがいたらいいな」と待望しているだけなのだが、何となく重々しい。

「主体性をもって取り組む必要がある」も同様だ。「主体性」で何をするか、具体的にはよくわからない。もし、それぞれがそれぞれの思惑に従って行動するのが「主体的な行動」だとしたら、結局、どんな行動をしても「主体性」の発揮になるだろう。「主体的」という言葉に何となく肯定的なニュアンスがついて、ポジティブな印象を持たせているのだ。

(次回に続く)