「性善説」と「性悪説」、正しい意味で使っていますか?

「性善説」と「性悪説」を聞いたことはあるでしょう。

「性善説」は、「人の本質は善人である」という考え方で、「性悪説」は、「人の本性は悪人である」という考え方です。実はこれらも古代中国の思想が元になっています。

しかし、この2つの言葉、現代では次のように解釈されることがあります。

  • 「性善説」は「人は生まれもっての善人である。だから、人を信じるべきである」
  • 「性悪説」は「人は生まれもっての悪人である。だから、犯罪はなくならない」

これは正しいのでしょうか? それぞれ見ていきましょう。

「性善説」は「聖人君主」が登場するための考え方

「性善説」の提唱者である孟子は、理想の政治(王道政治)として「最低限の衣食住が保証され、故人の葬儀が滞りなく整然と執り行なえること」がスタート地点になると述べました。そのために必要なのが安定した収入であり、教育です。

今から2000年以上も前の考え方ですが、大いに頷けるものがありますよね。

しかし、こうした政治を実現できる為政者は限られています。孟子はその人を「聖人」と呼び、「天命」を授けられた者が国を治めるのだと言いました。

ここで「性善説」が大きな役割を果たします。孟子は、「聖人」がこの世に生まれ落ちるためには、生まれつき善人でなければならない。もし、人間が生まれつき悪い性質を持つ存在ならば、「聖人」は永久に生まれてこないといいます。

ただ、人間が生まれつき善人であっても、生きていく中で悪の誘惑にとらわれ、善ではない存在に変化することもありえます。そうならないために、常に善い存在になるよう努力をしなくてはいけないと述べました。

これが「性善説」の本来の考え方です。

「性悪説」は孟子の思想を現実社会でどう具体化するかを示した考え方

一方の「性悪説」は、荀子(じゅんし)という思想家が提唱した考え方で、「人の善良なる精神は、生まれつき備わったものではなく、体験や学習を通じて得たもので、結果論にすぎない」というものです。

これだけを見ると、荀子は孟子を批判しているように思うかもしれません。

ところが、意外にも荀子は孟子シンパの一人。「性悪説」も実は孟子に思想に反対する考え方として唱えたわけではないのです。

荀子は、孔子が考えた「仁」が後天的であるとするならば、それを現実にするには教育が必要だと考えます。そして、孟子の「王道政治」を実現するには、為政者が「仁」を持つ人物でなければならない、やはり教育が必要であると考えたのです。

戦国時代末期、私利私欲に走る人々を見ていた荀子は、「仁」をまったく会得していないことに嘆きます。そして、人間には規範を教えてくれる師匠が必要だと言いました。

教育の必要性は、孟子、荀子ともに共通しています。荀子は、師匠・孟子の理想主義をより進化させたとも言えるでしょう。

これが「性悪説」の本当の意味なのです。

これからを生きるためにも知っておきたいのが東洋思想

古代中国で生まれた東洋思想は、私たちが生きる現代の日常において頻繁に見受けられます。しかし、時に誤用されていたり、拡大解釈されていたりすることもしばしばあります。

『知っていると役立つ「東洋思想」の授業』はここであげた3人の思想家だけでなく、老子や荘子、孫子など、名だたる思想家たちの考え方を人物別に紹介し、日常やビジネスシーンに応用できる形でエッセンスをまとめています。

正しくその思想を学ぶことができれば、誤用もなくなるはずですし、人間の本質をしっかり捉え、生きるために必要なことを知ることができるはずです。

「じっくり向き合う」という感じではなく、ちょっとしたときに気軽に読むことができる内容になっているので、思想がちょっと苦手…という人もなんなく読み込めるでしょう。