日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

2026/07/28 10:16

岡部家に続いて、同じく豪農の喜多家を訪れた。喜多家があるのは、敷浪駅から2駅金沢寄りの免田駅。「免田」とは税を免除されていた田のことだろう。
この免田駅から15分ほど歩いた北川尻に豪農喜多家の屋敷がある。
喜多家の由緒も古く、清和源氏で新田義貞の三男義宗の末裔と伝えている。ただし、嫡流は鳳珠郡能登町木住の新田家で、喜多家はその庶流にあたる。戦国時代、新田新四郎義直(のち八郎左衛門)は能登畠山氏に仕えていた。しかし、能登畠山氏は上杉謙信に敗れたため、新四郎は帰農して子孫は木住の有力農民となった。
この新四郎の弟に四郎二郎義致という人物がいた。四郎二郎は父の生まれ故郷である伊予国喜多郡(愛媛県)に転じ、同地で死去した。そして、その子一二郎が父の没後に伯父新四郎を頼って能登に戻ると「喜多」を名字として北川尻村に移り住んだと伝える。以後喜多家は栄えて豪農となり、北川尻と河北郡倉見村(津幡町)に2家に分かれてともに十村役をつとめた。
喜多家住宅は北川尻の喜多家の屋敷である。道路に面して茅葺の重厚な門構えがあり、ここをくぐったあと玄関までには屋敷林が広がっているという広大なものだ。

なかでも特徴的なのが、その玄関。農民や使用人用の玄関、十村役として使用する玄関、加賀藩士のための武家用小式台、そして、藩主用の大式台と4つの玄関が並んでいる。屋敷内も、武家用と農民用では畳の床の高さが違っているなど、当時の身分差を如実に表したつくりとなっている。


