日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

2026/03/24 10:23

豊島に行った翌日は直島を訪れた。直島は香川県なのだが、岡山県の宇野港からの方がはるかに近い。従って定期船も宇野港からの便が多く、高速船だとわずか15分しかかからない。
一方、高松港から乗った高速船は宮浦港まで30分ほど。平日にも関わらず補助席までおろしてほぼ満員で、その8割程は欧米人だ。小豆島とは違って島が小さいため、自転車があれば島内を巡ることができる。そのため港の前にはいくつかのレンタサイクルショップが並んでおり、どの店も英語で外国からの観光客に対応していた。
直島はかつては金属の精錬で有名な島だった。一時は人口が7800人にも達したというが、精錬所のなくなった今では3000人以下。しかし、地中美術館、直島新美術館など次々と美術館が建設されて、今ではアートの島として欧米から多くの人が集まる観光地となっている。なかでも、宮浦港の埠頭にある草間弥生のカボチャのオブジェは有名。
さて、直島は歴史的にも重要な島だった。中世、この島には水軍を率いた高原氏という一族がおり、瀬戸内海で一定の力を有していた。高原氏は藤原姓といい、家伝によると鎌倉時代初期に直島支配をまかせられたと伝え、代々直島・男木島・女木島の3島を支配していた。
そして、天正10年(1582)に豊臣秀吉が備中高松城を攻めた際に高原次利が水軍を率いて海上警護にあたり、これを機に秀吉から3島の領有を正式に認められた。以来、秀吉の九州攻めや、文禄・慶長の役にも水軍を率いて参加しており、関ヶ原合戦では東軍に属して本領安堵された。江戸時代は交代寄合として2000石を知行、代々直島領主だったが、江戸中期の元禄年間仲頼(数馬)のときに改易された。
宮浦港から自転車で10分程走ると、直島東部の本村地区に出る。このあたりは古くから湊町の風情が残る地区だ。この一角の小高い山の上に高原城跡があり、その近くには高原家墓地がある。極楽寺の横にあった高原氏の菩提寺は江戸後期の大火で廃寺となり、現在はその墓石だけが残っている。しかし、次利の立派な五輪塔は当時の勢力を彷彿とさせる。


