人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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霧の新庄と、将棋の街天童

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2023/12/26 10:39

米沢を散策した次の日は、北上して新庄と天童を訪れた。

新庄は戸沢家の城下町である。戸沢家は出羽仙北地方の戦国大名戸沢氏の末裔で、関ヶ原合戦で戸沢光盛は東軍に属し、戦後常陸松岡藩(茨城県高萩市)4万石を立藩。そして、元和8年(1622)に出羽新庄6万8200石に転じて来た。江戸時代を通じて領内の新田開発・鉱山開発を推進し、幕末の実高は10万石余であったという。

盆地には朝から霧が立ち込め、底冷えがする。新庄も城下町のはずれの瑞雲院に国指定史跡となっている藩主戸沢家の廟所がある。上杉家の廟所とは比べようもないが、ここも6万石余の藩主としては立派な廟所であった。

霧が立ち込める新庄
戸沢家の墓所

新庄の後は南下して天童で降りた。天童藩の藩主は織田家。織田信長の三男信雄の末裔である。「どうする家康」の大坂の陣の回に織田常真として再登場し、ネット上で「まだ生きていたのか」と驚かれていた。

織田家は桃山時代に滅亡したと思われているが、実際には信雄の末裔が2家、長益(有楽斎)の末裔が2家の、計4家が江戸時代も大名として続いていた。

さて、天童は将棋の町である。駅には将棋資料館が併設され、街中では郵便ポストの上など、いたるところにモニュメントがある。毎年4月に開催される「人間将棋」も有名だ。

江戸時代中期、織田家が上野小幡から出羽高畠に転じた頃には既に将棋の駒の製作が行われており、幕末に天童に転じると「将棋は戦闘を練る競技である」という理由から、経済的に苦しむ藩士に内職として将棋の駒作りを奨励した。こうして将棋の駒は天童の特産品となり、現在では全国の90%以上と圧倒的なシェアを誇っている。

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