人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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黒石城下の「こみせ通り」と鳴海家

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2025/07/15 10:39

弘南鉄道弘南線を津軽尾上駅からさらに進むと、終点の黒石駅につく。ここ黒石にも、県を代表する商家が残っている。

黒石はかつて黒石藩の城下町だった。江戸時代初期の明暦元年(1655)、津軽藩3代藩主津軽信義が急死したため、その子信政が4代目を継いだ。しかし信政はわずか11歳だったため、信義の弟信英が甥信政の後見人となった。

このとき信英は5000石を分知され、黒石に陣屋を置いて交代寄合となったのが祖だ。そして、江戸時代後期にさらに6000石が分知されて計1万石となり黒石藩を立藩した。明治維新後は子爵となっている。

信英は黒石に新しい町割りを行い、その際に建物の表通りに雪除けの庇をもうけさせた。これを新潟県では「雁木」というが、黒石では「こみせ」と呼んだ。この「こみせ」が黒石市中町には残されており、「中町こみせ通り」として「日本の道百選」にも選ばれて観光地になっている。

こみせ
中町こみせ通り

このこみせ通りの一角に、青森県を代表する豪商の一つ、鳴海家の住宅がある。鳴海家は戦国時代は千徳氏の家臣で、千徳氏の滅亡後に帰農したという。江戸時代本家は代々久兵衛を称した。

そして、文化3年(1806)に分家した文四郎家は「久○」と号して黒石城下中町で酒造業を営み豪商となった。現在は鳴海醸造店で、銘酒「菊乃井」で知られている。同家住宅は黒石市指定有形文化財となっており見学もできるということなのだが、私が着いたときにはすでに夕方で、外から拝見するだけだった。

鳴海家
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