日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2025/07/08 10:27
盛美館
あいかわらず、各地の旧家を訪ねている。今回訪れたのは津軽の旧家。津軽の旧家というと、太宰治の実家である金木(五所川原市)の津島家が有名だが、平川市猿賀にある国の名勝、盛美園を造った清藤家もよく知られる。
清藤家の歴史は古い。初代清藤盛秀は鎌倉幕府執権北条時頼の家臣といい、北条時頼の回国伝説と、津軽に伝わる唐糸御前の伝説に深く関わっている。
唐糸御前は5代執権北条時頼の寵姫だったが、時頼の寵愛を一身に受けるようになると周囲の妬みから鎌倉を逃れ、郷里の津軽・藤崎に隠れ住んだ。その後、時頼が諸国行脚で津軽を訪れることを知ると、田舎で落ちぶれた姿を悲しんで近くの柳の池に身を投げたという。時頼はその死を深く悲しみ、唐糸御前が通っていた平等教院という寺院に墓を営んだと伝わる。
清藤家の祖盛秀は、この唐糸御前の供をして津軽に移り、そのまま定住したと伝えている。戦国時代には商家として栄えており、江戸時代には代々大庄屋をつとめた。明治維新後、24代盛美は尾上銀行頭取を務めている。
弘南鉄道弘南線の津軽尾上駅から西に10分ほど歩いたところに盛美園がある。9年の歳月をかけて明治44年に完成したもので、広さは3600坪、明治時代三名園の一つともいわれる。
庭園の一隅に建つ盛美館は、一階が数奇屋造りの純和風、二階はルネッサンス調の洋館という和洋折衷の不思議な作りとなっている。