人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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須坂の豪商・田中家

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2008/10/07 09:44

週末、北信濃に出かけてきた。
長野新幹線で長野に行き、そこから長野電鉄に乗り替えて、終点の湯田中温泉で一泊、という行程である。途中で寄ったのが、長野電鉄の屋代線との分岐点である須坂市。堀家一万石の城下町、といいたいところだが、残念ながら城はなく、小藩の堀家の殿様は陣屋暮らしだった。

この須坂に、豪商田中家があった。田中家の創業は、江戸中期の享保年間。初代新八が、現在の須坂市穀町で穀物、菜種油、煙草、綿、酒造業などの商売を始めた。以後、代々須坂藩の御用達を勤めるとともに、名字帯刀を許される大地主となり、幕末には士分として須坂藩の財政にも関わっている。



その財力は1万石の藩主をも上回ったという。陣屋暮らしでは充分な庭園も持てなかったのか、天明年間につくられた池泉廻遊式庭園には、藩主がお忍びでやって来たといい、藩主専用の通路も残っている。



屋敷は100m四方3,000坪の敷地を、20の土蔵が取り囲む豪壮なもので、現在は「豪商の館 田中本家博物館」として一般公開されている。私が訪れた時には、地元テレビ局の取材が入り、江戸時代の豪商の食事を再現した試食会も開かれていた。

江戸時代は身分社会だった。とはいいながら、豪商は藩主よりも贅沢な暮らしをし、幕末には藩の財政も取り仕切っている。当然名字もあり、展示されていた当主の肖像画は武士の装いだ。

「田中」という名字は地形由来でルーツも多く、江戸初時代には、初期のわずかな期間を除いて、大名や公家など、有名な一族はいない。

須坂の田中家は、江戸期を代表する田中さんの一つ、といえそうだ。
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