日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

2025/10/21 10:52

秋田県には多くの旧家が残っているが、今回はそのうちの2つを訪ねてた。
まず訪れたのが、矢島の土田家である。土田家は矢島駅から15分ほど歩いたところにある。木曽義仲の四天王の一人、根井小弥太行親の末裔と伝える旧家で、近隣にある根井館跡は先祖の遺跡といわれている。豊臣秀吉から朱印状が与えられ、この地域の独立した小領主であったが、江戸時代初期に相庭館に移り住み帰農したという。
その住宅は延宝年間(1673~1681)頃に初代清左衛門が建てたと伝わり、中世武士住宅の「主殿造り」の系統を引いている。昭和48年国指定重要文化財に指定され、60年復元された。
もう1つは秋田市金足の豪農だった奈良家である。奥羽本線追分駅で降り、高校野球で有名な金足農業の前を通って20分ほど歩くと、男潟(おがた)、女潟(めがた)という2つの湖(沼)に挟まれた場所に建つ秋田県立博物館につく。

このあたりは、日本庭園水心苑を含めて秋田県立小泉潟公園となっている。
潟とはもともと外海の一部だったものが、砂洲の延長などによって外海と切り離されたもので、ラグーンともいう。日本海側には八郎潟を始め、鳥屋野潟(新潟県)、河北潟(石川県)など各地にある。男潟は今でも水をたたえているが、女潟はすっかり湿原化していた。


奈良家は現在秋田県立博物館の分館となっており、博物館から1kmほど北方の男潟のほとりにある。戦国時代に大和国から移住して来たと伝え、江戸時代中期の9代喜兵衛の頃には百町歩の大地主となっていた。
そして、喜兵衛が宝暦年間(1751~1764)に建てた同家住宅は、建物の両端の入口部分が全面に突き出す両中門造りで、昭和40年には国の重要文化財に指定されている。
庭には、明治14年に明治天皇が東北巡幸した際に、休憩をするために建てられた北野小休所があり、こちらも国の登録文化財に指定されている。