日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

2025/10/14 11:06

秋田2日目は矢島に。秋田駅から羽越本線で南下し羽後本荘駅で下車。本荘は六郷家2万石の城下町で、本荘城跡が本荘公園として整備されている。すこし時間があったため、本荘城址などを散策したあと、由利高原鉄道に乗り換えた。

由利高原鉄道はかつての国鉄矢島線で、赤字による廃線寸前だったが、昭和60年に第三セクターとして再出発したものだ。1時間から2時間に1本、1両のディーゼルカーが田園地帯を走るという典型的な地方ローカル線である。それでも日中でもそこそこ乗客はあった。

さて、この鉄道の終点が矢島駅である。現在では由利本荘市矢島町だが、平成大合併前は由利郡矢島町だった。そして、この矢島町は明治22年に町村制が発足した時点ですでに矢島町であった。当時秋田県内の市は秋田市のみで、残りは14町222村。「町」であった矢島は県内の主要な地域であったことがわかる。

江戸時代、矢島は生駒家の所領だった。生駒家はもともと高松藩17万石余の藩主。しかし、家中不取締りを理由に高俊が矢島1万石に移されている。そして、高俊の跡を継いだ高清は、弟に2000石を分知したため自らは8000石となり、大名から旗本交代寄合となってしまう。
とはいえ、交代寄合は参勤交代も行い、石高がやや足りないだけでほぼ大名に準じる処遇であった。その陣屋は旧八森城で、堀も巡らした立派なものである。

以後ずっと交代寄合として矢島を支配、幕末に親敬が戊辰戦争に際して新政府方に与したことから1万5200石に加増され、実に200年振りに大名に返り咲き、矢島藩を立藩した。ただし明治時代の爵位制では、旧大名は原則子爵以上が与えられたのに対し、幕末に立藩した生駒家は男爵にとどまっている。