人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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佐賀城と龍造寺氏の盛衰

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2025/06/10 10:10

週、梅雨入り直前の佐賀を訪れた。佐賀と言えば、鍋島家35万7000石の城下町である。蓮池・小城・鹿島という3つの支藩を持ち、その領地は長崎県にまで及んでいた。しかし、戦国時代の佐賀は龍造寺氏の所領であった。この龍造寺氏の盛衰はわかりづらい。

龍造寺氏は藤原北家秀郷流佐藤氏の末裔と伝えるがはっきりせず、在庁官人高木氏の出である季(秀)家が鎌倉幕府の御家人となって肥前国佐嘉郡津東郷龍造寺(佐賀市)の地頭となって龍造寺氏を称したのが祖である。その後筑前国にも進出、南北朝時代、家親・家政父子は足利尊氏に従って活躍した。室町時代は少弐氏に属して大内氏と戦っている。

龍造寺本家は村中城(現在の佐賀城)に拠り、室町時代後期の当主康家の五男家兼は分家して近くの水ヶ江城の城主となっていた。その後本家で内部抗争や当主の早世などが続くと、家兼が家臣鍋島氏の助力を得て勢力を回復した。

水ヶ江城址と龍造寺隆信の碑

そして、翌年に家兼が死去すると、子家純・孫周家が少弐氏によって謀殺されていたため、仏門に入っていた曾孫の隆信が還俗して家を継いだ。

隆信はすでに死去していた嫡流胤栄の未亡人と再婚して龍造寺一門の総帥となると、主家少弐氏を滅ぼして肥前を支配、さらに筑後・肥後にも進出して、大友氏、島津氏とともに九州を三分する大大名に発展した。

しかし、これだけの勢いを誇った龍造寺氏も天正12年(1584)に島津家久に島原で敗れて自刃すると、あっけなく重臣鍋島直茂に実権を奪われている。関ヶ原合戦後肥前は鍋島氏に与えられ、龍造寺氏はその家臣として佐賀藩士となった。そして、慶長7年(1602)には高房の死で龍造寺家嫡流が断絶している。

直茂は肥前支配が認められると、村中城を大幅に改修、広大な佐賀城となった。その堀端にはハナショウブが咲いていた。一方、水ヶ江城は廃城となり、龍造寺氏の痕跡はなくなっていった。

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