日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2025/04/22 10:33
青木家
萩には多くの藩士の家が残されている。厚狭毛利家萩屋敷、福原家萩屋敷、周布家長屋門という高級藩士の屋敷跡に交じって、豪商菊屋家の近くには青木家の屋敷跡もある。
この青木家は、なかなかユニークな家である。もともとは周防国大島郡安下荘(山口県大島郡周防大島町)の旧家で、その先祖は甲斐武田氏と同族である。
甲斐源氏の青木氏の一族に青木和泉守という人物がいた。和泉守は戦国時代に長州に移って毛利元就に仕え、江戸時代は周防大島で代々医者となった。幕末、子孫の周弼は蘭学を修めて長州藩医に登用され、嘉永元年(1848)には13代藩主毛利敬親の侍医となった。そして、弟の研蔵を長崎に遣わして種痘法を研究させ、藩内に種痘を実施したことでも知られている。
研蔵の婿養子(娘テルの夫)の周蔵はプロイセン(ドイツ)に医学生として留学すると、現地で経済学に転向、帰国すると外務省に入省した。そして外交官として活躍し、不平等条約の撤廃に尽力、明治20年(1887)に子爵となっている。
周蔵はテルと離縁してプロイセンの伯爵家の令嬢と再婚、一人娘はのちに渡欧し、子孫はヨーロッパに在住している。そのため、青木家は子爵杉孫七郎の三男梅三郎が養子となって継いだ。
青木家からその後も多くの外交官が出ており、平成8年(1996)末に起こったペル―大使館公邸人質事件の際の青木盛久駐ペル―大使も梅三郎の孫にあたる。