人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

●サイト(オフィス・モリオカ)
  → https://office-morioka.com/
●ツイッター
  → http://twitter.com/h_morioka
●facebookページ
  → https://www.facebook.com/officemorioka/
●Instagram
 → https://www.instagram.com/office_morioka/

 

畠山重忠の最期

このエントリーをはてなブックマークに追加

2022/06/14 11:14

重忠の首塚

2回にわたって「鎌倉殿の13人」に登場する畠山重忠と畠山氏について書いてきたが、ここからはネタバレとなる(といっても歴史的事実だが)。

ドラマには最初から登場し、鎌倉幕府成立後は重鎮として活躍した重忠だが、頼朝の没後は武蔵国の支配をめぐって北条氏と対立する。

そして元久2年(1205)、息子の重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で口論となると、牧の方は北条時政に讒言。時政の意を受けた女婿の稲毛重成が将軍実朝に進言して畠山一族追討の命が出された。

重保は由比ガ浜で三浦義村によって討たれ、鎌倉からの呼び出しを受けて菅谷館から鎌倉へ向かっていた重忠は、北条義時率いる討伐軍に攻められて討死した(自害ともいう)。このドラマの主要登場人物で天寿を全うする人は少ない。

この重忠が討死したところが、横浜市の二俣川である。相模鉄道鶴ヶ峰駅近くには、重忠の首をあらった「首洗い井戸」や重忠の首塚がある。また、合戦と聞いた重忠の内室菊の前(足立遠元の娘とも)は菅谷館から駕籠で駆けつけたが、間に合わず自害。駕籠ごと埋葬されたという駕籠塚も近くにある。

このときの畠山重忠の軍勢はわずかに130騎。これを迎え撃った北条義時は1万騎を超えたといい、その軍勢の揃ったと伝える場所が万騎が原という地名になって残っている。

このエントリーをはてなブックマークに追加

ページのトップへ