いま、金融機関、飲料メーカー、物流大手などで、サイバー攻撃によると思われるシステム障害が相次いでいます。その背後にある構造を、国際的なサイバー防衛の現場を知る専門家が、企業経営、社会インフラ、安全保障、AI主権の視点から読み解く『2025-2035 サイバー空間の地政学 「見えない戦場」の現在地と未来予測』が発売されました。その序章の一部を公開します。
20世紀の地政学は、陸の広がりと海の航路、資源の埋蔵地と国境線の引き方を争った。
21世紀の地政学は、海底ケーブルの経路、クラウドの設置国、半導体のサプライチェーン、そしてAIを動かす電力をめぐって争われる。
戦場は地図の上ではなく、毎朝ログインする画面の向こう側にある。
2035年、完璧な朝
地政学の本は、普通は国境線と資源の話から始まる。本書は違う。朝のコーヒーから始めよう。
2035年。仮想のシナリオだ。
あなたは何も気づかない。
午前6時55分、家事支援ヒューマノイドロボット(人型ロボット)がカーテンを開け、コーヒーを淹れ始める。「おはようございます。今日の東京は晴れ、最高気温28度。9時の会議資料は関係者に共有済みです」。寝室を出る頃には、朝食のトーストが焼き上がっている。
玄関を出ると、自動運転の車が待っている。2030年代前半に完全自動運転が解禁され、ハンドルを握る必要はない。窓の外を、宅配ロボットが歩道を滑るように進む。上空では、空飛ぶクルマ(eVTOL:イーブイトール)が都心のビル群の間を縫って飛ぶ。信号機、街灯、監視カメラ、道路の振動センサー。あらゆるものが、エッジAI(現場の機器内部で即座に判断する小型AI)で制御され、都市は1つの巨大な生命体のように脈動する。
会社に着く。あなたの代わりに働く、もう一人のあなたであるAIアシスタントが会議の要点をまとめ、必要な判断だけを求めてくる。ふと、端末の画面の隅に見慣れない通知が一瞬だけ表示され、すぐに消えた。何だったのか思い出そうとするが、もう覚えていない。気のせいだろう。帰宅すると、ヒューマノイドが夕食の準備をしている。子どもは、AI先生と一緒に宿題をしている。何も起きていない、完璧に快適な1日。
しかしその1日の間に、自動運転車の制御システムに対して47回の不正通信が試みられ、すべて0.008秒以内に遮断された。自宅のヒューマノイドへの不審なソフトウェア更新要求が3件検出され、即座にブロックされた。会社のクラウドには未知のマルウェアが侵入を試み、0.04秒で隔離・無力化された。街の警備ロボット群への一斉制御の乗っ取り試行も、0.1秒で異常が検知され、人間の監視者に報告すらする必要がないレベルで処理された。
そのすべてを、あなたは知らない。知る必要がない。
攻撃が来ても社会は止まらず、人は傷つかず、日常が続く。「何も起きなかった」ことが、最高の勝利。これが、本書の結論だ。
だが、この世界はまだ来ていない。

巻き戻された時計。2025年の日本
これは、サイバー空間の地政学の物語。物語だが現実。地政学とは、こうだ。国には動かせない条件がある。地形、資源、インフラ。動かせないから、できることとできないことが決まる。それが国同士の力の差を生む。変えられないものから出発して、国の運命を読み解く。それが地政学だ。
いま、社会の中枢はデジタルに移った。「動かせない条件」は新しい3つの層に書き換わった。第一は、データが通る道、インターネット・通信ネットワーク・海底ケーブル。第二は、計算が行われる場所、クラウド・データセンター。第三は、計算を支える資源、半導体・電力。そして、これらは国家だけの話ではない。あなたの会社のサーバールーム、毎朝ログインするクラウドサービス、取引先が使うVPN装置。それらはすべて、この3つの層の上に載っている。だから、そこが戦場であり、新しい地政学の現場である。
クラウドが止まれば国が止まる。半導体が止まれば軍も産業も止まる。電力が揺らげば、AIの知能そのものが止まる。そしていま、AIそのものが国家間の開発競争の主戦場になりつつある。高性能なAIを、どの国に使わせ、どの国には使わせないか、その線引きさえ国家の重要戦略になり始めた。だから、地政学になった。本書が最終的に問うのは、この新しい地の利の上で、誰が、何を、どう選ぶか。意思決定の戦いである。
時計を10年巻き戻す。2025年の日本。
この年、国内で公表されたセキュリティインシデントは559件。1日1.5件のペースで、どこかの企業が被害を明かしていた。9月にはアサヒグループホールディングスがランサムウェアに侵され、「スーパードライ」の出荷が止まった。攻撃者は侵入後10日間にわたって社内ネットワークに潜伏し、最も効果的なタイミングを見極めてから暗号化を発動している。衝動的な犯行ではない。プロの作戦だ。
10月にはアスクルへの攻撃が委託先を含む複数企業に波及し、無印良品やロフトの物流までもが巻き添えになった。
しかし、日本社会に最も深い傷を残したのは、その前年に起きた1つの事件だった。
2024年、KADOKAWAグループがランサムウェアに襲われた。ニコニコ動画を含む複数のサービスが同時にアクセス不能に陥り、約25万人分の個人情報が漏洩した。業務の本格復旧には数か月を要した。翌2025年5月公表の2025年3月期通期決算で、サイバー攻撃の影響として売上高▲83億円・営業利益▲47億円が正式に確定。さらに翌年の2026年5月の決算では、サイバー攻撃の影響は「消失」と公式に総括された。攻撃発生から業績への影響が消えるまで、約2年を要した計算になる。 KADOKAWAは日本を代表するコンテンツ企業であり、IT子会社のドワンゴには高度な技術者が揃っている。それほどの組織でも、無傷ではいられなかった。
もしこれが電力会社だったら? 水道局だったら? 病院だったら?
その「障害」はただの技術トラブルだったのか?
思い出してほしい。最近、身の回りで起きた「ちょっとした不便」を。
あなたのスマートフォンの電波やGPSが妙に不安定だった日。地図アプリが見当違いの場所を指して、待ち合わせに遅れた日。ネットバンキングが数時間止まった日。飛行機の予約システムがダウンして空港が混乱した日。ATMが使えなかった日。ニュースは「システム障害」「通信障害」と報じ、数時間後に復旧し、あなたは忘れた。
しかし、その「障害」のすべてが、本当にただの技術的トラブルだったのだろうか。
IPA(情報処理推進機構)が2025年に選定した「情報セキュリティ10大脅威」で、「地政学的リスクに起因するサイバー攻撃」が初めてランクインした。国の専門機関が公式に、サイバー空間の脅威が「犯罪」の域を超え、「地政学」に地続きであることを認めた。
国家を背景にした高度な攻撃者は、一気にインフラを破壊するとは限らない。むしろ「障害」の範囲にとどめるほうが賢い。完全に停止させれば国家の防衛機構が動き、本格的に対策をする。しかし「障害」なら、社会は「またか」と思うだけで翌週には忘れる。その間に、どの系統が弱いか、復旧にどれだけかかるか、政府の反応速度はどうか。すべてが記録され、分析され、次の作戦に組み込まれる。
あなたが「大変だったな」と忘れた「あの障害」は、誰かにとっては「次の一手」のための布石だったかもしれない。すべての障害がそうだとは言わない。しかし、そうでないと断言できる根拠も、あなたは持っていない。
20世紀の地政学は、陸の広がりと海の航路、資源の埋蔵地と国境線の引き方を争った。21世紀の地政学は、海底ケーブルの経路、クラウドの設置国、半導体のサプライチェーン、そしてAIを動かす電力をめぐって争われる。戦場は地図の上ではなく、毎朝ログインする画面の向こう側にある。
著者プロフィール
奥野史一(おくの ふみかず)
サイバー防衛専門家。大阪府堺市出身。慶應義塾⼤学⼤学院修⼠課程修了。ITベンダー、クラウド企業、⼤学研究機関、コンサルティングファームにおいて、DX、デジタルガバメント、AI、データ分析、サイバーセキュリティ、インテリジェンス、防衛・安全保障等の国家レベルの問題や社会課題を解決してきた経験を持つ。
2016年⽶国にて政府機関向けサイバーインテリジェンス認定資格であるCASOを⽇本⼈として初めて取得。2024年から2025年には総務省サイバーセキュリティエキスパートを務めた。世界最⾼峰のセキュリティコンテストである「DEF CON」、世界最大の多国間サイバー防衛演習「ロックド・シールズ」(NATOサイバー防衛協力センター主催)などにも参加。現在は、GMOサイバーセキュリティ byイエラエ株式会社執行役員、GMO Preferred Security株式会社取締役、GMOインターネットグループ株式会社グループサイバー防衛事業推進本部「6」本部長補佐を務める。保有資格はCISSP、CASO、一級船舶免許、茶道裏千家流許状など。





