人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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鍋島氏発祥の地、御館の森

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2025/06/17 10:23

さて、龍造寺氏に代わって肥前の領主となった鍋島氏も地元佐賀をルーツとする一族である。

名字の地は肥前国佐嘉郡鍋島(佐賀県佐賀市鍋島)で、宇多源氏佐々木氏の末裔という南北朝時代の長岡伊勢守経秀(宗元)が祖とみられている。経秀は子経直ととともに山城国から肥前国に下向して鍋島村に住んだという。やがて龍造寺氏に仕え、佐賀郡本庄村(佐賀市本庄町)に転じた。

龍造寺家兼が大内義隆と戦った田手畷の戦いで清久が活躍して龍造寺方を勝利に導くと、その子清房は龍造寺隆信の従兄弟にあたることもあって龍造寺氏譜代の重臣となり、清房の子直茂は龍造寺隆信家臣団の筆頭の地位に昇った。

天正12年(1584)龍造寺隆信が戦死すると、跡を継いだ政家は政治を鍋島直茂にまかせてしまう。すると、九州を制圧した豊臣秀吉も現状を追認して鍋島直茂に肥前を実質的に支配させた。関ヶ原合戦では直茂は東軍に属して本領安堵され、まもなく龍造寺本家が断絶すると、以後は名実ともに佐賀藩主となった。

佐賀市郊外の鍋島には「鍋島家発祥の地(御館の森)」がある。

御館の森

JR長崎本線で佐賀駅の隣が鍋島駅だ。鍋島地区はここから北に向かって広がっており、佐賀大学医学部附属病院の北の辺りが鍋島氏の本拠地であった。バス停の名も「鍋島本村」で、鍋島の中心部であったことがうかがえる。

このバス停からさらに北に歩くと、畑の一角に木の茂っている場所が見える。これが御館の森である。ここは鍋島氏の祖長岡経秀が山城国から下向して館を構えた場所と伝わっている。やがて本庄に移り住むため、ここに住んでいた期間はそれほど長くないと思われる。

それでもこうして保存されているのは、龍造寺氏の水ヶ江城などと違って佐賀市のかなり郊外に位置することもあるだろうが、地元の方の崇敬を集めているのだろう。

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