人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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東海道を歩いてみた(2)

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2008/10/27 13:29

品川宿から青物横丁と、しばらく旧道を歩いてきたが、鈴が森で再び第一京浜と合流する。今では、高速の入口という認識しかない人も多いが、ここは江戸時代の刑場跡だ。旧道と第一京浜の合流するところには、火炙り台や、磔台のあとがあり、供養塔がいくつもならんでいる。


磔台跡

江戸時代、死罪となった罪人は、北の小塚原(荒川区)か、南の鈴が森で処刑された。最初の処刑者は丸橋忠弥ともいわれ(死後にあえて磔にした)、八百屋お七や天一坊などが、ここで処刑されている。当時の鈴が森は東海道に面し、まもなく江戸という交通の要所。こういう場所であえて公開処刑を行ったのは、あきらかに見せしめが目的だ。北の小塚原も日光街道沿いである。

鈴が森からは第一京浜を歩くが、道路の西側では、京急線の高架工事が行われていた。六郷の土手で一休みしたあと、多摩川を渡って神奈川県川崎市に入る。ここからすぐに川崎宿となり、旧道に入るが、政令指定都市の玄関駅である川崎駅前のため、もう昔の面影はまったくない。道路沿いにある案内の標識が元宿場町であることを示している程度。

その標識の中に川崎宿の田中本陣跡があった。この田中家は、先日このブログで紹介した須坂の田中家とともに、江戸時代を代表する田中家の一つ。本陣を継ぎ、川崎宿中興の祖といわれた田中休愚(丘隅)が有名。休愚は財政難だった川崎宿を建て直しただけでなく、大岡忠相の推挙で富士山噴火で水害に悩んでいた相模川の治水工事にも成功して、多摩川周辺の三万石を支配する代官にも抜擢された。そのため、この田中家は、幕臣の系図を修正した「寛政重修諸家譜」にも、「第一三三一 未勘源氏」(詳細不詳の源氏)の一つとして掲載されている。


田中本陣跡

朝9時に日本橋を出て、川崎宿についたのが午後3時半。時間的には余裕があるが、とりあえずここまでにした。歩いた距離は約20km。半分以上は第一京浜だったが、予想以上に旧道も残っていた。
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