日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

2025/12/16 10:12

奈良の最後は柳生の里に。柳生一族というと、柳生十兵衛を筆頭に剣豪として知られるだけではなく、山田風太郎の小説では忍者として超人的な活躍をみせる。そのため、架空の一族と思っている人もいるが、柳生家は大和柳生藩主をつとめる実在の大名であった。
そのルーツは大和国添上郡小楊生郷、現在の奈良市柳生である。柳生は奈良市とはいっても奈良の町からはかなり遠い。三重県との県境に近い小盆地で、観光客がいるわけでもなくも長閑な里山といった風情だ。

『寛政重修諸家譜』によると、平安時代に藤原頼通が神戸4箇郷(大楊生荘・坂東荘・小楊生荘・邑地荘)を春日大社に寄進、このうち小楊生荘の荘官をつとめた大膳永家が祖という。
元弘元年(1331)、笠置山城に拠った後醍醐天皇を菅原永珍・中坊源専兄弟が助けた。笠置山落城後、北条氏によって一旦所領を没収されたが、建武政権で再び旧領を与えられて永珍が領し、その子家重のときに柳生氏を称したという。
戦国時代には家厳が柳生城を築城したが筒井氏に敗れて落城。子宗厳(石舟斎)は三好長慶、松永久秀に従う一方、上泉秀綱に師事して神陰流の剣術を学び、あらたに柳生新陰流を創始した。しかし、豊臣秀長の大和入りの際に所領を没収されたという。
その後、宗巌は徳川家康に招かれ、五男宗矩を将軍家の剣術指南役として推挙したことで、柳生氏は再興を果たした。宗矩は2代将軍秀忠、3代将軍家光の剣術師範となり、家光には側近として仕えて大和柳生藩1万石を立藩して諸侯に列している。
この里には柳生家にまつわる史跡が残されている。幕末に家老として財政を再建した小山田主鈴の旧屋敷である旧柳生藩家老屋敷は、一時作家山岡荘八の所有となり、NHK大河ドラマの原作「春の坂道」の構想を練った屋敷としても知られている。

また、柳生石舟斎(宗厳)が修行中に天狗と試合を行って一刀のもとに天狗を切り捨てたところ、実は巨石だったという「一刀石」もある。この他にも、柳生藩陣屋跡や、芳徳寺の柳生家墓所などが点在している。


しかし、何より驚いたのは一刀石への途中にある天石立(あまのいわたて)神社である。天照大神が天岩戸に閉じこもったとき、天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)がその扉を引き開けた。その際に力余って、扉がここに飛んで来て刺さったという言い伝えがあるという。

確かに板形の巨石は、天岩戸を塞いでいた扉のようにみえる。ほぼ知られていない無名の場所だが一見の価値がある。