日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2025/09/02 10:01
東福院
先週紹介した、小野梓、林有造、岩村通俊、竹内綱らはすべて宿毛領主山内家の家臣で、土佐藩の陪臣であった。明治時代には薩長土肥といわれた新政府方の藩からは多くの人物が活躍したが、直接の藩士ではなく1家老の家臣からこれだけ多くの人材が輩出したのは珍しい。
この山内家は藩主山内家の分家というわけではない。戦国時代には安東氏といわれ、維新後は伊賀氏を名乗った。江戸時代には、藩主が家老家に対して自らの名字を与えるということは、広島藩など他の藩でも行われている。ただし、宿毛山内家は全く血縁関係がない、というわけでもない。
さて、宿毛山内家は、もともとは美濃国池田郡の国衆安藤(安東)氏の一族である。稲葉一鉄、氏家卜全とともに西美濃三人衆と呼ばれた安藤守就は北方城(岐阜県本巣郡北方町)に拠り、名字は安東とも伊賀とも名乗っていた。
しかし、本能寺の変後の北方合戦で稲葉氏に襲われて落城、守就と弟の郷氏は戦死した。この郷氏は山内一豊の姉を妻としており、郷氏の子可氏は叔父一豊のもとに逃れている。その後、一豊が長浜城主に出世すると可氏は「山内」の名字を与えられて重臣の一人となった。
江戸時代、東西に長い土佐藩では要所に家老を配して、その地を治めさせた。西の端である宿毛には可氏をおき、宿毛山内家として7000石を支配させた。以後宿毛山内家は同地を支配し、幕末には次々と有能な人材を輩出させた。
最後の当主氏成は戊辰戦争で羽越国境に転戦、維新後は伊賀氏に復してロンドンに留学し、帰国後高等商業学校(一橋大学)教授をつとめている。氏成のあとは旧藩主山内容堂の孫氏広が継ぎ、男爵となる一方飛行家としても知られている。
今は幼稚園となっている伊賀邸跡の少し西に、伊賀家の菩提寺東福院がある。なんの案内もなく分かりづらいが、裏手の山には伊賀家の墓地があるというので登ってみると、昨年の震度6弱の地震のせいか一部墓石が倒れていたものの、1家老とは思えないような立派な墓地が広がっていた。