日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2025/08/26 10:12
今年のお盆は帰郷し、母校のホームカミングデーで講演を行った。そして、翌日は高知県の西の端、宿毛市を訪れた。
今では鉄道も通っていて便利だが、地元にいたころは道路事情もよくなく、宿毛市を訪れるのは初めて。中村駅で土佐くろしお鉄道宿毛線に乗り換え、東宿毛駅で降りると、駅には「早稲田・梓駅」とある。ここは大隈重信のブレーンで早稲田大学(東京専門学校)の創立者の一人として活躍したものの若くして亡くなった小野梓の出身地である。
宿毛はその町に規模に比べて、実に多くの著名人が出た町としても知られる。駅から10分ほど歩いたところにあるのが、「宿毛まちのえき林邸」。ここは維新の元勲の一人林有造の邸宅跡で、復元された邸宅跡にカフェが併設されている。
林有造の二男が吉田茂の側近として知られ、衆議院議長をつとめた林譲治で、さらにその長男が労相などをつとめた林迶という政治家一族である。また有造は養子で、その生家は近くの岩村家。実兄岩村通俊は農商務相などをつとめ、実弟岩村高俊も各地の県知事などを歴任した。高俊の長男透は明治の美術史家の草分けとして知られる。
その北には「竹内綱・吉田茂邸跡」がある。竹内綱は板垣退助とともに自由党を創設し、その重鎮として活躍した。その五男が戦後を代表する政治家吉田茂で、生まれは東京だが選挙区は高知県だった。
その北側の本城山という小高い山の上には宿毛城があった。戦国時代には松田兵庫の居城で、松田城と呼ばれていたが、長宗我部氏元親に敗れて陥落。江戸時代になると山内(安東)可氏が6000石で入部。改修して西の守りとしたものの、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になった。可氏は麓に降りて宿毛土居に住み、代々土佐藩家老として宿毛をおさめた。土居跡は現在は幼稚園となっている。
城跡は石鎚神社になっているとあったので登ってみた。しかし人の通った形跡は乏しく、頂上につくと神社は崩壊し、廃墟と化していた。