日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。
交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。
2025/01/28 10:00
日田といえば、広瀬淡窓である。広瀬淡窓は江戸後期を代表する学者で、その塾である咸宜園は緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾と並んで3大私塾ともいわれ、累計5000人もの塾生が集ったという。
日田には「淡窓」という地名があり、そこにある小学校は咸宜小学校。また市立図書館は淡窓図書館という名前であるなど、広瀬淡窓と咸宜園はまさに日田を著わす言葉となっている。
淡窓の出た広瀬家は、日田市豆田の豪商であった。広瀬家は武田信玄の家臣だった広瀬郷左衛門の弟正直の子孫と伝え、延宝元年(1673)に初代貞昌が博多から豊後国日田郡豆田魚町に転じたのが祖。博多屋と号して質屋の他、蠟・油・紙などを扱った。
3代・久兵衛の頃から豪商となる傍ら桃之と号して俳人としても活躍した。4代・平八は府内藩御用達となる一方、やはり月化と号した俳人であるなど、一族は俳人としても知られた。
咸宜園を開いた淡窓は5代・三郎衛門の長男で、月化の甥にあたる。淡窓は体が弱かったことから家を継がず、学問で身を立てた。6代目を継いだのは弟の久兵衛で、宇佐・国東の新田を開発、福岡藩・府内藩・対馬藩の財政改革にも参画するなど、広瀬家をさらに発展させている。広瀬家は、北家と南家にわかれ、現在は広瀬資料館として一般公開されている。
淡窓の咸宜園には全国各地から塾生が訪れた。咸宜園では入門者の身分・学歴・年齢を無視して平等に最下級からスタートさせ、厳格な試験によって進級を定めるという評価制度を用いており、その級は塾内に掲示していた。
咸宜園跡は国指定史跡として無料で公開されている。そこには主な塾生も紹介されており、大村益次郎、高野長英、上野彦馬、長三洲、清浦奎吾と言った名が見える。