人名・地名 おもしろ雑学

日本で一番多い名字は佐藤で、2番目が鈴木といわれています。しかし、「本当?」と思っている人も多いのではないでしょうか。東京の周辺に住んでいる人は違和感がないでしょうが、関西の人だと、一二を争うのは山本と田中だろう、と思っています。

交通が便利になって、東京からだと、離島や山中を除いてほとんどの所に日帰りできるようになりました。でも、日本は狭いようで、まだ地域差は残っています。そんな日本を名字や地名からみつめ直してみたいと思っています。

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著者プロフィール

森岡 浩(もりおか・ひろし)

姓氏研究家・野球史研究家。1961年高知市生まれ。土佐高校を経て早稲田大学政治経済学部卒。学生時代から独学で姓氏研究を始め、文献だけにとらわれない実証的な研究を続けている。一方、高校野球を中心とした野球史研究家としても著名で、知られざる地方球史の発掘・紹介につとめているほか、全国各地の有料施設で用いられる入場券の“半券”コレクターとしても活動している。

現在はNHK「日本人のおなまえっ!」解説レギュラーとして出演するほか、『名字の地図』『高校野球がまるごとわかる事典』(いずれも小社刊)、『名字の謎』(新潮社)、『日本名字家系大事典』(東京堂出版)など著書多数。

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間宮林蔵と狸渕

2024/04/23 10:00

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間宮林蔵という名前はほとんどの人が知っているだろう。江戸時代の探検家で、樺太と大陸の間にある間宮海峡の発見者である。世界地図にその名が記されている数少ない日本人でもある。

間宮林蔵は農家の出。とはいっても戦国時代は北条氏に仕えていた間宮一族の末裔と伝えられ、武士から帰農した農家であった。間宮氏は宇多源氏の一族で、名字の地は伊豆国田方郡間宮(現在の静岡県田方郡函南町間宮)。戦国時代は北条氏に従い、多くの分家があった。

一族には江戸時代旗本となった家もある。そのうちの一人間宮隼人は北条氏滅亡後常陸国筑波郡平柳村(現在の茨城県つくばみらい市平柳)に転じて帰農し、平柳間宮家となった。その子孫が林蔵である。

取手駅からバスに30分ほど乗り、稲豊橋で降りて小貝川の土手下を少し歩いたところが平柳で、その生家跡には間宮林蔵記念館がある。

小貝川の土手
すぐ近くの専称寺にある間宮林蔵の墓

林蔵はこの小貝川の堰き止め工事に参加した際に、効果的な方法を進言して幕臣村上島之丞に認められ、その推挙で幕府の下役人となった。そして蝦夷地の探検家としても知られた村上島之丞のもとで林蔵も探検家として名を成した。

林蔵は、生家のあった平柳村の隣村、狸渕村の名主飯沼家の養子となっている。この狸渕という地名、「むじなぶち」と読む。

むじなは通常「狢」と書いてアナグマのことを指すが、タヌキの毛色がアナグマと似て混同されることが多いことから、タヌキのことを「むじな」ということもあった。この付近ではタヌキを「むじな」といい、「むじなぶち」という地名に「狸」の漢字をあてたのだろう。なお、地名の由来としては、川などが曲がっていることを指す方言「むじる」に因むとみられる。

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