時は平成元年、バブル景気の真っ最中。
若者は皆が、DCブランドに身を包み、ど派手なディスコや高級レストランが満員になっていた時代だ。トレンディドラマが全盛期だった。テレビのブラウン管に映る華やかなオフィスしか見たことがなかったボクは、自分の置かれた現実に愕然とした。

ボクは、10年間社会人を経験して32歳で独立するつもりだった。
「どうせなら大企業でなく小さい会社で働いてみたい」
そう考えて選んだ就職先だったのだ。

「大企業に行ったら10年は補欠。うちやったらすぐにレギュラーや」

入社当日の夜、幹部の皆が歓迎会を開いてくれた。
病み上がりのオヤジは、お酒を飲まない。
「ガンになる前にもう一生分の酒は飲んだからな」
ニコリともせずにそう言い、氷を抜いたぬるいウーロン茶を飲んでいた。

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『「上に立つ人」の仕事のルール』嶋田有孝 著

ボクは、オヤジの役職が社長でないことが気になっていた。ちょうど宴もたけなわの頃、思い切って訊ねてみた。

「勉強不足で申し訳ありません。なぜ会長のお役職は、会長兼社長なのですか?」
オヤジは、わずかに首をかしげ、不思議そうな顔をして言った。
「お前は、賢そうな顔をしとるクセに、そんなこともわからんのか?」
そして、無言でうなずくボクに対して大きな声で続けた。
「そのほうが、会社がでっかく見えるからに決まっとるやろ」
(ええっ? そんな理由)
ボクは、その子どもっぽい答えに失望した。
(ヤバイ。これは、本当に入る会社を間違えたかもしれないぞ)

ボクは焦った。ざわざわと胸が騒ぎ、手のひらからじわりと汗が出てきた。
その後、数人の先輩が話をしてくれたが、その内容は、ほとんど入ってこなかった。
頭の中には「就職で冒険なんかしたら一生後悔するぞ」と言った友人の顔が思い浮かんでいたのだ。

しばらくすると歓迎会がお開きになった。
「本日は、ありがとうございました。ごちそうさまでした」
ボクは、深々と頭を下げ、皆にお礼を言った。
すると、オヤジが、無言で右手を突き出し、再び握手を求めてきた。
そして、初対面のときと同様にボクの手を強く握りながら言った。

「大企業に行ったら10年は補欠。うちやったらすぐにレギュラーや。社内を見渡してみろ。年寄りばっかりやろ。あいつらは、10年もしたら引退するか、棺桶に入っとる。そしたらお前の天下や」
周囲にいる幹部は、苦笑いをしながらその言葉を聞いていた。

ボクは、うなずくこともできず、じっとオヤジの目を見た。すると、オヤジは、ボクの手をさらに強く握って続けた。
「お前ならきっとできる。思う存分やってみろ」