保守論壇の大御所・中西輝政氏と朝鮮半島問題のスペシャリスト・西岡力氏が我が国をめぐる国際関係史を読み解き、我々にとって本当に必要な歴史認識とは何かを示した『なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか』。

「反日勢力によって次々に仕掛けられる歴史戦に、なぜ負け続けているのか。なぜ反撃できないのか」「東京裁判史観によって封印された民族の歴史を取り戻すことは、永遠に許されないのか」――。

本書では昨年の「戦後70年談話を巡る攻防」や「日本の外交がインテリジェンス(情報・諜報)で劣っている理由」などをテーマに、2人の論客が現状を打開するための方途を考察しています。

ここでは、同書二章の「なぜ日本は戦争に負けたのか」のなかから、「昭和が支払わされた大正のツケ」を抜粋し、2回にわたってご紹介します。

昭和が支払わされた大正のツケ

中西 1945(昭和20)年を境にして、戦前と戦後をまったく別の時代であったかのようにとらえるのは、やはりおかしい。昭和という時代を理解するには、戦前と戦後をつなぐ連続性のなかでとらえるべきだというのは、私の年来の持論でもあります。ただ、それだけでも不十分だと思うんですね。というのは、戦前を考えるとき、その前の大正時代との連続性のなかでとらえないと、よくわからないことが多いからです。

逆にいえば、大正と昭和を区切らずに、もっと広い国際情勢や歴史の大きな流れをたどっていくと、そういう形式的な時代区分では見えてこない、もっと本質的な因果関係がはっきりと見えてくる。

たとえば、1931(昭和6)年の満州事変は、たしかにその後の日本にとって大きなターニングポイントになりましたが、実はそれ以前に中国大陸で起こっていたことがもっと重要で、そこへ遡っていくと、1920(大正9)年あたりから、はっきりとしたつながりが見えてくるんですね。ところが、1926(大正15/昭和元)年で区切ってしまうと、大正時代は大正デモクラシーや政党内閣、昭和時代は軍国主義や侵略戦争といった印象に塗り固められてしまって、重要な歴史の因果関係が見落とされてしまう。

同様に、広く世界史を俯瞰してみると、日本にとって大きな悲劇だった第2次世界大戦が、なぜああいうかたちで起こったかを説明しようとしたら、実はロシア革命と1918(大正7)年から22(大正11)年にかけて行なわれたシベリア出兵の杜撰さを指摘しなければならない。

※シベリア出兵:1918年8月から22年10月にかけて、日米英などの連合国がソ連の革命軍によって囚われた「チェコスロバキア軍救出」を名目に出兵。日本は連合国最大の7万人を派遣したが、約1万人が死傷。莫大な戦費を強いられ、「無名の出師(名分のない戦争)」といわれた。また、日本の国際的孤立の始まりを画すできごとでもあった。